でも、もういい
「来ないなぁ」
隣に座った女性が言う。
いや、おそらく女性なのだろうと私が思っているだけだ。
隣人は上下水色のゆったりとしたパジャマのような服を着ていて、髪は大体私と同じ、肩の上ぐらいまである。ほうれい線や目尻の皺から大体50代くらいではないかと思うが、それも不確かだ。
このバス停は高いドーム型の屋根が有り、雨や泥を防ぐ為か、喫煙ボックスのように透明のアクリル板で覆われている。煙草を吸う人も灰皿も無く、ただ青いベンチだけがあるだけの空間にも関わらず、中の空気は何故か霧のようなもので曇っていて、1mよりも近くに座っている隣人の姿がぼんやりとしているのだ。
いや、はっきり姿が見えたとしても、外見から分かる事など限られている。私自身の姿さえ相手からどう見えているのか、私は把握していない。
もう長く鏡を見ていない。
手がかさかさして土気色をしているが、いつからこのようになったのかも分からない。私は灰色の木綿のスリーパーのようなものを着ているが、いつからこの服を着ているのかも分からない。
いつからバスを待っているのかも、もう覚えていない。
ただただ長い時間を隣に座っている人間とともに過ごしている。
この閉鎖的で不可思議なバス停で。
エアコンが内蔵されているようには思えないが、ここの空気は私にとって適温で暑くも寒くもない。薄い透明のアクリル板しか外界との狭間は無さそうだが、一体どういう仕組みになっているのだろうか。外は、春だろうか、秋だろうか。それも分からない。
ここから見えるのは舗装されていない道路と、広大な畑のような土地、視界の端にそびえ立つどっしりとした大きな木。植物全般に詳しくないので、何の木なのかも私には分からない。分からない事だらけだ。
「バス、遅いねぇ」隣人がもう一度呟く。独り言なのか私に呼びかけているのか、いつも分かりにくい喋り方をする人間だが、今は私に言っているのだろうと判断し、私は答える。
「バスが来る時間も書かれてないし、時計もないし、もしかしたらここはバス停ではないのかもしれませんよ」
もう何度も私が提示している可能性にも関わらず、隣人は何度も目を見開いて驚く。
「それじゃぁ私らはどうしたらいいのさ」
「さぁ」
「もう随分ここで待っているんだよ。車の一つでも見かけなきゃ今まで待った甲斐が無いじゃぁないか」
「貴方は時間を無為に過ごした事を認めたくないのでしょうか。でも私は、バスも車も他の人間も動物も、ここにはもう何も来ないんじゃないかとずっと思ってるんです」
「でもそこに畑があるよ。畑があるならここで畑を管理してる人間がいるはずじゃないか」
「さぁ。でも何かが育っている風でもないし、誰かが様子を見に来る気配もないし、あれは捨てられた畑かもしれませんよ」
「あれだけ広い畑を捨てる人間がいるものかね」
「さぁ、私には何も分からんですよ」
「日が暮れてしまわないかな」
もうこれは何度も繰り返した会話だ。何度も何度も。
ここは昼も夜もなく、ただ暮れそうな夕暮れがいつまでも暮れず、私達の背に赤い日を当てている。その日の光は何故か暖かく感じられず、この空間の白く濁った空気を僅かに赤く色づけようかとしているだけだ。
私はもう何度もここを出て行こうかと言った。
バス停を囲むアクリル板は当然一部引き戸になっており、そこを開ければ私達は外に出て、別のバス停を探す事も出来る。
しかし、隣人は何度誘ってもこの青いベンチから動こうとしない。水色のズボンが青いベンチと一体化してしまったのではないかと思うほど、隣人は座ったままだ。エコノミークラス症候群になってしまうからたまには立って体操したらどうかと私は思い、実際そのように伝えたが、隣人は苦く笑ってただ座り続けるのだ。
一人で外に出てみる気は起きず、長くともに過ごした隣人を置いて行く事は当然出来ず、私もただずっとこのバス停に留まり続けている。
「これは夢ではないかしら」
何度も提示した可能性を私はまた言う。
「そんな事はない。だって私、夢だったら自分でワッと起きれるよ」
「ワッ?」
「そう、怖い夢を見たら、あ!これ夢だ!って気付いて、ワッ!て」
「ふぅん、じゃぁこの夢が怖くないだけなんじゃないかしら」
「確かに怖くはないね。君がいるもの」
「いつまでも暮れない日があると思いますか。あるわけないでしょう。これは夢ですよ」
「じゃぁ、ワッて起きてみたらいいじゃないか。ワッ!」
「私はその『ワッ』っていうやり方が分からないんですよ」
「簡単さ。頭の後ろの当たりから意識をグッと持ち上げて、ヨッコラショって起きるんだよ」
「それじゃ分かりませんよ。一度やって見せてください」
「やだよ。起きちゃったらもう君に会えないかもしれないじゃないか」
隣人はまたいつもの眉を顰めた妙な笑い方をして誤魔化した。
隣人も結局私を置いていけないのだ。
私はその事を思うと何故か胸が暖かくなって、嬉しくなってたまらない。私は恋をした事がないし、それについて誰かと話した経験もおそらく無いから分からないのだが、もしかしたらこういう気持ちの事をいうのではないかしら、とずっと推測している。
いつか隣人がふっと私の隣から消えて、いや、『ワッ』と現実世界に帰ってしまったら、私は迷いなくこの奇妙なバス停から出て行けるだろう。隣人がいなくなった悲しみでわんわんわんわん泣きながら果てしない道程を歩き、ちゃんとバスの来るバス停を見つけて、私も家に帰るのだ。
でも、もう帰る家の記憶も残っていない。
どう記憶を遡っても、このバス停に来た時の事までしか思い出せないのだ。私はいつかの夕暮れ時にこのアクリル板に囲まれたバス停を見つけて、そこの青いベンチにもたれかかっているこの人間を見つけたのだ。
私がアクリルの引き戸を開けて中に入ると、その人間は嬉しそうに笑いかけて「こんにちは。こんばんは、かな」と言った。
「暫く一人で寂しかった」とも。
この夢の外の世界で、誰かが私の帰りを待っているかもしれない。
隣人の家族が、隣人が起きるのをずっと待っているかもしれない。
でも、もういい。もういいのだ。
バスも、ずっと来なくったって構わない。ずっと来なくて構わない。
私の灰色のスリーパーも段々青いベンチに染まって、尻や背中から濁った水色に変わってきている気がする。私が最後に立ち上がって体操をしたのはいつだったかしら。
「貴方、お名前なんて言うんでしょう」
「とっくに忘れちゃった」
「そう、私も思い出せないんです。ごめんなさいね」
「何を謝るの」
「いいえ、私がここに来なかったら、貴方とっくに『ワッ』って起きてるんじゃないかと思って」
「君、本当にこっちを夢だと思ってるんだね」
隣人はまた苦く笑った。
「あっちが夢だったかもしれないじゃないか。もう殆ど何も覚えていないけれど、覚えていないのは夢だったからって事かもしれない」
「成程そうか」
「この会話、何度目だい。それに夢だったら、君は私が作り出した仮想の人間になってしまう。君にとっての私も」
隣人は少し不安げにこちらを見て
「君、本当にそこにいるんだろう」と訊いた。
「多分いますよ」と私はふざけて笑った。
「真剣に聞いてるのに。いじわるめ」
隣人はすねたように、ふんと真っ直ぐ向き直り広い畑に目を戻した。
「私、もう貴方を外に誘いません。私も動けないんです。もうこのベンチに身体がくっついてしまって。ほら、貴方と同じ水色になってきているでしょう」
「なんだ、じゃぁずっと一緒だ」
「そう、ずっと一緒ですよ」
私は少し緊張しながら、初めて隣人の手を握った。
その手は酷く冷たく、かさかさとして、とても血肉のある人間の手とは思えなかった。
でも、もういい。もういいのだ。
短編集 松村生活 @matsumuramurara
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