第36話 「鈍色の筒の先」

「椎菜!」


 椎菜はあの黒人二人組の手によってソファから摘み上げられ、宙でバタついている。


「や、やめっ! 離してください‼」


 必死の抵抗も虚しく、黒人の一人が椎菜を羽交い締めにした。


「おい! 悠月! これは何の真似だ!」


「見てわからんのか。人質を取っているのだよ、人質を」


 俺は怒りのあまり我を失いそうになる。しかし、俺の鼓膜に届いた音がそれすらも妨げた。


「……ヒッ……‼」


 スチャリ、と音がしてその先に目を向けると、声にならない悲鳴を上げた椎菜のこめかみに、もう一人の黒人の手によってピストルが押し付けられていた。


「椎菜‼ おい‼ それを椎菜から離せ‼」


 俺はその黒人に掴み掛かるが、鍛え抜かれたその身体に適うはずもなくあえなく吹き飛ばされてしまう。


「幸樹さん‼」


「無駄だぞ、神塚幸樹。お前らはただの警備員か何かだと思ったみたいだが、そいつらは特殊な訓練を受けている私設傭兵団のメンバーだ。馬鹿な真似は二度としないことだな。さもないとあの娘の脳みそが吹っ飛ぶぞ。……それから小娘、お前も死にたくなければ無駄に騒がないことだ」


 くそ! ここまで来てもこいつらはやっぱり実力行使かよ! 


 俺は激しい怒りを覚えたが、このままでは事態が好転しないことは目に見えている。何とか平静さを繕い、俺は悠月に問いかけた。


「……何をすればいい」


「物分かりが良くて助かるよ、神塚君。君が彼女を助けるためにすることはただ一つ。この契約書に署名して捺印する、それだけだ」


 そう言って悠月は懐から一枚の紙を取り出す。


 悠月が契約書と呼んだ紙を手に取り、内容を確認する。


 えっと……現所有者は天神ノ森と呼ばれる土地を(株)クラルテ・コーポレーションに売却する。売却価格は(株)クラルテ・コーポレーション側の言い値とする……って何だこれ⁉ さすがに横暴すぎるだろ……。


 しかし、これにサインしなければ椎菜の命は危ういだろう。ヤクザとの繋がりも強い会社だ、単なる脅しで済まない可能性も大いにある。


 契約書を前に固まってしまった俺の前に、悠月からペンが差し出された。これを使え、ということだろう。


 森を失ったとしても、他のきの娘達はどこかに移住できれば死ぬことはないだろう。むろん俺とて、森が無くても命にかかわる問題にはならない。ならばここは椎菜の命を優先するべきだ。


 俺はそう考え、契約書に署名することを決意した。


「ダメです‼」


 突然、椎菜が声を上げた。


「ダメです、幸樹さん‼ そんな奴の脅しに乗らないでください‼」


 まだ何のアクションも起こしていないのに、椎菜は俺を制止する。


「いや、お前そうは言っても……」


「幸樹さんの考えてることなんてお見通しです! でもそんなの上手くいくわけありませんよ! きっとそこに名前を書いたが最後、私だけじゃなく幸樹さんさえも殺されてしまいます! 最終的に誰一人助からずに終わりますよ!」


 椎菜は今までに見たことのないような、ものすごい剣幕で一息に叫んだ。


「まあ、署名しないと言うのなら私はそれでも構わんがね。その場合あの小娘の頭に鉛が撃ち込まれる、ただそれだけなのだから」


 悠月は俺の心の迷いを敏感に読み取ったのだろう。改めて椎菜の命を握っていることをアピールしてくる。


「私なんかどうだっていいですから! 大切なのは幸樹さんがあの森と皆を守る事です! そうじゃないと天国の天樹さんに顔向けできませんよ! だから絶対にサインなんてしないでください!」


 違う、そうじゃない。大切なのは俺もお前も生きて帰ることだ。

 そう叫ぼうとした俺の口は開かず、いつまでも歩きださない言葉の代わりに、どうしようもない葛藤と形にならない思考だけが俺の身体を支配していた。


 目は見開かれ、呼吸音が激しくなる。どこを見ているのか何を考えているのか、自分でも全く分からない。考えを巡らせようと思うあまり、逆にブレーキがかかってしまったような感覚が続く。


 うんともすんとも言わない俺にしびれを切らしたのか、悠月がついに動いた。


「そうか。それがお前の答えなんだな。まあいい。若い人間の心に大きなトラウマを植え付けるのもまた一興だろう」


「ま、待てっ!」


「もう遅い! タイムアップだ。お前の判断の遅さが一人の人間を殺した。その罪の意識は一生お前の心に巣食い、蝕み続けることだろうな。これは私たちをコケにしようとした報いだ。覚めない悪夢の中で過ごすがいいさ」


 もはや人間のものとは思えないほど暴虐的な笑みを浮かべた悠月は、レンズ越しの瞳に狂気を滲ませながら、椎菜の方へ向き直る。


「最後に言いたいことがあるなら言わせてやる。そこの小僧に対する恨み言でもなんでも残すがいい」


「え、ああ。どうも……」


 この緊迫した場面で、どこまでも間抜けな返事である。これもやはり俺を平常心に戻そうとしているとかなのだろうか。


 椎菜は悠月に軽くペコリと頭を下げると、寂しげに微笑みながら俺の名を呼んだ。


「幸樹さん。どうやら私、これが最後の言葉になってしまうようなので、伝えたかった事全部伝えときますね」


 そう言うと、椎菜は深く息を吸い込んだ。

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