第32話 「甘くて酸っぱくて苦い」
さして付き合いの長い訳でもない俺が、椎菜のコンプレックスに対して共感の念を抱き得るのは、言うまでもなく俺もまた同様の引け目を感じているからに他ならない。
容姿、学業、運動神経。どれをとっても大きく平均を外れることが無い。小学生の頃の通知表に書かれる言葉は、毎年決まって「落ち着いて生活しています」だった。パッと見良さげなコメントだが、特に目立ったところはないということを暗に示しているのは明白だ。もうちょっと頑張ってくれよ、担任教師。
ともかく俺は、今までの人生を平凡という言葉の内に収めてきた。そして恐らくは椎菜も。
まな板と包丁の刻むリズムがホールにも響いてきた。どうやら本当に昼食を用意してくれているらしい。
一生平均点の生活を甘んじて受け入れようした俺と、不変を嫌った彼女。二人の間に生じた開きは俺の心を焦らせた。果たしてこのまま切り離されていいのだろうか。
ガチャリと音がして扉が再び開いた。
「幸樹さん~できましたよ~」
そう言って、ウェイターよろしくトレーを片手に椎菜がテーブルに近寄ってきた。
「椎菜特製サンドイッチです!」
「おー! 美味そう!」
椎菜が用意した昼食はサンドイッチだった。三角形の食パンの間に挟まれた具材は、ベーコン、レタス、トマト、チーズなどオーソドックスなものだ。
シンプルだが丁寧に作られたことがよくわかるそれは、俺の食欲を強く刺激した。
「さ、早く食べましょう」
「おう、そうだな」
じゃあ、と言ってどちらからともなく手を合わせる。
『いただきます!』
一切れ手に取り、口に運ぶ。
「うん! 美味い!」
「そうですか! 良かった~」
俺の反応に安心したのか、椎菜も一歩遅れて皿に手を伸ばした。
「~~! 美味しい!」
ニコニコと頬張るその姿は、やはりいつもと変わらない。
良質な食材を使っているのか、サンドイッチは目にも美しい出来栄えだ。普段はあまり得意ではないトマトも、真っ赤な色と相まって非常に甘そうに見える。
「どうしたんですか、幸樹さん?」
「あ、いやなんでもないよ」
椎菜がパクパクとサンドイッチを口に運びながら、俺に尋ねてきた。というかあなたそれ何切れ目? もう皿の半分くらい無くなってるんですけど……。
俺も二切れ目に手を伸ばす。
口に運ぶとトマトの確かな酸味が広がった。何度も噛みようやく飲み込んでも、喉に引っ掛かるような酸っぱさは容易には消えず、まるでトマトの果肉そのもののように不快な柔らかさを伴った。
「あ! すいません! もう無くなっちゃいました!」
「え……」
ねえ君どんだけお腹空いてたの? 確か、十切れ以上用意してくれてたはずだよね? 俺まだ二切れしか食べてないんだけど……。
「……俺はいっぱい食べる女の子も悪くないと思うぞ……うん」
「わ~‼ そんな哀れみに満ちた瞳を向けないでください‼」
椎菜が真っ赤になりながら詰め寄ってきた。
「もういいです! 二度と作ってあげません!」
頬をぷくりと膨らませながら、椎菜は席を立つ。
「おい! ごめんって。どこ行くんだよ!」
「お茶入れてきます!」
「あ、そうですか。ありがとうございます」
どうやら本気で怒っていたわけでは無いらしい。パンを食して渇いた喉を潤すために食後のお茶を用意してくれるだけだったようだ。
さ、気持ちを切り替えよう。今はこんなくだらない悩みよりも、考えなければならないことがある。
だいぶ武器もそろってきたことだし、そろそろクラルテに殴り込みに行く時期と方法を真剣に検討しなくてはなるまい。時間をかければかけるほど、双方苦しくなるのは目に見えている。
それに俺の両親が下手な動きを見せないかどうかも心配の種だ。そもそも今回の件は全て、親父たちの身勝手な行動に端を発しているのであり、また厄介ごとを引き起こさないとも限らない。
あとはまあ、俺が一日も早く学校に復帰しないと、さすがに人間関係が手遅れになる。大抵のことは我慢できる心の広い俺でも、便所飯は嫌だ。マジ、勘弁。
「幸樹さん、お茶どうぞ」
「ん。ありがとう」
椎菜が湯呑に茶を入れて戻ってきた。白い湯気とともに立ち上る爽やかな香気が鼻腔をくすぐる。
「なあ椎菜」
「はい?」
先ほどまでのむくれ顔は既に鳴りを潜め、通常モードに移行した彼女に呼びかける。
「数日中にクラルテに出向こうと思っているんだが……」
お茶をフーフーと冷ましている彼女に、クラルテに直接行くことの意向を伝えた。
「だから、その日はこの森を空けることになると思う。もし奴らが強硬手段を取ってきた時は対応を頼む」
「何言ってるんですか私も一緒に行きますよ、クラルテに」
「へ?」
何言ってるんですか、はこっちのセリフなんですけど。
「へ? じゃないですよ。幸樹さん一人に任せられるわけないじゃないですか。相手はゴリゴリのブラック企業ですよ。平凡な高校生一人でどうにかなるわけないでしょう?」
「いや、そうは言っても……。お前を連れて行って正体がばれたらどうする。本末転倒だろ」
万が一捕まったりしたら何をされるか分かったものではない。
「だとしてもです」
俺の言葉を半ば遮るようにそう言うと、椎菜は俺の目を真っすぐに見つめてきた。
「そもそも森を守ってくれなんて無茶なお願いをしたのは私たちの方です。その責任は可能な限り取らせてもらいます。それに……」
一度言葉を切り、再び口を開く。
「私、負けたくないので」
満面に広がる決意の表情でそう言った。
「ほらさっき、幸樹さんも応援してくれるって言ったじゃないですか」
「なんだよ、クラルテに行くことがその勝敗に関係すんのかよ」
「はい、しますよ」
ニコリと笑って首をかしげる。言質は既に取ったと言わんばかりの表情だ。
「~~っ! わかったわかった! じゃあ俺と一緒に来てくれるか?」
「はい、もちろんです」
ついに俺は根負けした。本当は椎菜を危険な目に遭わせたくはないのだが、これだけ意志の固い所を見ると何を言っても聞かないだろう。
「ただし! 自分の安全に最大限留意すること! これが最低条件だからな」
「了解です!」
おどけて敬礼なんかをし始めた。
こいつ楽しんでないか……? 遠足じゃないんですけど……。
「あ、じゃあ私クラルテの方にアポ取ってきますね!」
そう言い残し、電話をかけるためか自室への階段を駆け上っていった。やっぱり楽しんでやがるな、あいつ。
目の前のテーブルに残された湯呑からは、未だほのかな湯気が立ち上っている。
適温になったお茶を一口すすり、俺は心を落ち着かせた。やっぱり日本人なら緑茶だよなあ。
大きく開いた集会所の出入り口からは、やや赤みを帯び始めた太陽が覗いている。
いつかの夕陽が彩った彼女は、今自ら光を放とうとしている。
そんな彼女のために俺が出来ることはただ一つ。
「幸樹さん~明後日の午後なら大丈夫だそうです~!」
「じゃあその時間でよろしく~」
「は~い。じゃあその旨伝えときます~」
紅い陽を雲が遮る。
彼女を覆うものを取り払う事だけだ。
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