第16話 「笑顔は風呂より温かく、冷や汗は雨より冷たい」

 温まった身体に対して俺の心はどうにもぬるく、しかしその原因をつくった二人の菌類はにこやかに俺に話しかけてくる。


「幸樹さんも早くこの道を覚えてくださいね」


 風呂から上がった俺は、雨がだいぶ小降りになった夜の森を再び歩いていた。


「そうすれば、毎日幸樹さんとお会いできますわ」


 風呂場でのすったもんだの後、椎菜に今日の用事は全て終わったことを告げられ、俺は家路につくこととなった。


 あの程度の用事なら別に今日じゃなくたって良かったんじゃないかと思わなくもなかったが、長老曰く「明日以降は通夜やら葬式やらでお主も忙しいじゃろうから」とのことだ。その心遣いはありがたいが、そこまでわかってんなら雨降る夜道を歩く羽目になった俺の気持ちまで慮ってほしい。


 まあ確かに長老の言う通り、明日からは種々の法事で忙しくなるだろうから俺はすぐにお暇することにした。しかし山奥に拉致られたも同然だった俺には帰り道がわかるはずもなく、こうして椎菜にナビゲートを依頼することとなっている。貧乳の方は勝手についてきただけ。


「そういえば、俺には特に指示は無かったけどしばらくはこれといってやることも無い感じか?」


「そうですね。森の監視は私たちがやりますので」


「何か異常があった場合は、私から幸樹様にお伝えに伺いますわ」


 ということは、俺は指示待ちの状態ってわけだな。誰にでもできる簡単な仕事だな。初心者大歓迎!


 そんなことを思っていると椎菜が再び口を開いた。


「ただ……」


「ただ?」


「誠に申し訳ないのですが、事の次第と規模によっては今日のように突然お呼び出しをする場合もありますので、そのあたりは覚悟しておいてください」


 なんだ、その程度の事か。


「俺もこの森を守るって決めたんだ。それくらいなら甘んじて受け入れるさ。それに……」


 タイミング次第ではそれがありがたいことかもしれないしな。夫婦間の修羅場から逃げ出す口実になるかもしれないし、菌力をフル活用すれば合法的に学校をサボれる可能性もある。


 俺が冗談めかして右側を歩く椎菜にその旨を伝えると、逆サイドが反応した。


「それなら私の方も合法的に幸樹様の入浴現場にお迎えにあがれるかもしれませんわ!」


「ネンデレ痴女は黙ってろ‼」


 なんでこんなにこいつの脳内はピンク色なの? お前もその胸を見習って慎みを持て、慎みを。

 すると隣の椎菜が楽しげに笑い出した。


「フフッフフフッ」


 やばい! 思考を読まれた! と思っても時既に遅し。椎菜は全部わかっているとでも言いたげに俺の目を見つめてくる。


 と思ったら次の瞬間、その顔は俺の右耳に急接近していた。


「大丈夫ですよ。冬榎さんに言ったりしませんから」


 そう告げると椎菜は再び俺との距離を離した。慣性の法則で遅れてやってきた椎菜の髪が俺の右耳を少しくすぐり、今二人の距離がいかに近かったかを教えてくれる。

 あれ? こいつこんなに可愛かったっけ……。


「お二人のお蔭で久々にリラックスできました。ここ最近は色々と緊張しっぱなしだったので」


 再び楽しげに、そして先ほど以上に嬉しそうに椎菜は微笑んだ。


 椎菜の気丈な振る舞いにすっかり忘れてしまっていたが、確かにこいつにも重圧はかかっていたはずだった。祖父ちゃんの死という一族の存亡にかかわる転換点が訪れたことは言うまでもないし、加えて森の後継者である俺を呼び出すという重大な使命も与えられていたのだ。


「……頑張ってたんだな」


 自然と言葉が漏れる。


「……それだけじゃないですけどね」


 俺の呟きに応えるかのように椎菜も何かつぶやいたが、その応答はどこかピントがずれているように思われた。こいつのことだからきっと、俺の思考を読みに読みまくって何手か先の俺の発言に返答しているとかだろうけど。


 すると、俺の左側からも呻きに近い呟きが聞こえてきた。


「……何イチャイチャなさっていらっしゃるのですか……幸樹様?」


 怖い怖い怖い怖い‼ うわっめっちゃ怖っ――――‼


 冬榎もまた椎菜に対抗するかのように俺の左耳に直接囁いてきたが、これはもう恐怖しか感じない。今のお前はネンデレじゃなくてただのヤンデレだから!


「……私じゃ不満ですか…………?」


「しっ、椎菜! 助けて!」


 目が! この女目がマジだから‼


 すると椎菜は先ほどとは打って変わって最大級の悪い笑みを見せ、俺に告げた。


「嫌です。女の子の身体にとやかく言うような人には当然の報いです」


 ニコッ。スタスタスタ……。


「てめぇ! 何笑って置いていこうとしてんだ! お前も原因の一部になってんだからきっちり責任とれ……よ……」


「そうですかそうですかそうですか……。よ~くわかりました……。幸樹さんにとっては私なんかよりも椎菜様の方が良いのですね……。私なんか幸樹様にとってはどうでもいいんだ……ふっふふっ……」


 左半身の発汗機能がとんでもなく性能を上げている。冷や汗どころの話ではない。脱水症状に陥るのではないかと思うほど汗がドバドバ出てきた。


「全て……全て椎菜様が悪いのですわ……椎菜様さえいなければ幸樹様は……」


「そ、そういえば! こうして二人並んでいる姿を見るとまるでカップルみたいですよね? ね? 幸樹さん?」


 シイタケ女が遂に命の危機を感じたのか、俺に(主に自分自身が乗るための)助け舟を出してきた。


「そ、そうか~? い、いや~こんなに可愛い冬榎さんとカップルみたいだなんて、う、嬉しいな~」


 そういった瞬間、冬榎の顔がパッと明るくなった。


「椎菜様、本当ですか⁉ 私それを伺ってとても安心しました! やっぱり私と幸樹様は赤い糸で結ばれているのですわ‼」


 マジかよ。ちょろいな、お前。


 いやまあ、とりあえずヤンデレがネンデレ程度までクールダウンしてくれたのは良かった。こいつはマジでナチュラルに人を殺す可能性がある。


 ふと前を見ると、見慣れた人工光が暗闇の中にポツンと光っているのが見えた。


「着きましたよ、幸樹さん」


 いつの間にか家の近くまで来ていたらしい。


 俺のいない間に両親は帰ってきていたらしく、先ほどまで主人の帰りを待っていた駐車場には一台の車が停まっている。


「ここまでくれば、あとは帰れますよね? あ、くれぐれも私たちの事は内密にお願いしますよ?」


「わかってるって」


 あんな現金な家族のいる我が家でも、やっぱり我が家は我が家である。帰ってくると心が落ち着く。


「幸樹さん、それではまた」


「お待ちしておりますわ、幸樹様」


 静かに手を振る二人の美少女と、まばらに星が散る春の夜空を背に受け。


 俺の長い一日はその幕を下ろした。

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