第6話 「思い出はセピア色とは限らない」

 しっとりと肌に吸い付く森の空気は、不思議と心を落ち着かせてくれる。


 森に入って五分ほどふらりふらりと歩いていると、怒涛の数時間で荒れに荒れた俺の心持ちも少し休憩をはさんでくれたようだ。


 今日はてんこ盛りすぎだな。祖父ちゃんは死んじゃったし、親戚は金に目がくらんでるし、とどめに広大な土地の相続と来たもんだ。難易度マックスの音ゲーに挑戦しているみたいに、一つ一つのことに集中できる時間が短すぎる。


 柔らかな土が、普段より何キロか重くなっている俺の足取りをしっかりと受け止めてくれている。

 森に来るたびに通るこの道も、もとは他の場所と同じように緑色に包まれていた。俺と祖父ちゃんが何回も何回も歩いているうちに自然と出来た道だ。現に道の周囲を見てみても、そこにはやはり何も変わったことなどないかのように葉緑体の塊たちが広がっている。


「あっ」


 所狭しと枝を伸ばしている木々の根元に、小さなキノコを見つけた。


「食用だとしても、まだ食べごろじゃないか……」


 家に持って帰って、てんぷらにでもして食べようかとも思ったが、あまりにも小さすぎる。今日は触ってその感触を楽しむだけにしよう。ツンツンしちゃう! ツーンツーン!



 ……そういえば。

 キノコを見て、俺はある日のことを思い出した。あれは、たしか俺が小学校の低学年くらいの時だったろうか。今日の天気をひっくり返したかのような、良く晴れて気持ちのいい風が広がる秋の一日だったと思う。


 その日、いつものごとく森に来ていた俺と祖父ちゃんはキノコ狩りを嗜むことにしていた。祖父ちゃんが「シイタケがちょうど食べごろなんだぞ」と、嬉しそうに話してくれたのを今でもよく覚えている。


 森の中を半刻ほど歩いて、俺と祖父ちゃんは美味しそうなシイタケを見つけた。そいつは、小さかった俺にはとても大きく見えたが、スーパーで売っている物よりもひとまわり大きいかなといった具合だったはずだ。

 ふにふにとしたその姿を見た俺は、別に初めてキノコを見たわけでもないのに嬉々として声をあげた。


「おっきくて可愛いね、お祖父ちゃん!」


「そうか、可愛いか。幸樹は独特な感性を持っておるの」


「……?」


「普通、お前さんぐらいの童どもなら気味悪がったりするんだがな」


「えー? こんなに可愛いのに」


 独楽を逆さにしたような形のそいつは、なぜか知らんが俺の琴線に触れたようだった。可愛いと言って褒めるほどに、まるで言葉がわかるかのようにツヤを増すそのシイタケは見ていて飽きなかった。


「さて、じゃあ根元からちぎってみろ。コツを覚えたら簡単に採れるようになるぞ」


 ぽにぽにと傘をひっぱりひっぱりしていた俺は、思わず声をあげた。


「え! これ採っちゃうの?」


「採らんと食べれんじゃろう」


「でもお祖父ちゃん、こんなに可愛いんだよ? かわいそうだよ……」


 我ながらとんでもないことを言い出してやがるな。本末転倒の鑑だ。世界に誇ろう。


「……そうかい。よしっ! じゃあ帰って昨日もいできた柿を食べよう。悪くならないうちに食べ切ってしまわないといかん」


 まったくしょうがないなとでも言いたげに、それでいてどこか嬉しそうに。


 柔らかく微笑んだ祖父はそう言うと、土で汚れた俺の手を握ってゆっくりと歩き始めた。


「うん!」


 ごつごつとした祖父の手は大きくて、とても温かかった。



 その時だった。

 しゃがみこんでキノコを突っついていた俺の前に、ふっと何かが浮かぶような気配がした。


「…………じいちゃん……?」


 顔をあげた俺の目には、さっきまで安らかな寝顔を見せていたはずの祖父が、いや祖父の幻がいた。


「幸樹……」


 俺にはわかる。これは幻だ。一分も疑いようのない完全無欠の。


 アンビリーバボーな奇跡体験をしているにも関わらず、俺の脳みそは案外冷静に作用していた。


 周りの世界から切り離されたように現実離れした祖父の姿は輪郭がぼやけ、見えないはずの背後の木々もまた俺の視界に入ってくる。


「幸樹、おまえに伝えておかねばならぬことがある……あまり時間がないから手短にな」


 色素の薄い祖父が俺に語りかけてくる。


 こんな幻影を見るとは、今日の俺はよほど疲弊しているらしい。それとも祖父との思い出の中を旅していたからだろうか。


 祖父の幻はこちらをすっと見つめると、三度口を開いた。


「幸樹……わしはお前にこの森を託したいと思っておる」


 ――そうはいってもあまりにも唐突すぎるぜ祖父ちゃん。


「突然死んでしまったことはすまないと思っておる。じゃが人の生き死にだけはどうにもしようがないからな」


 ――どうして俺なんだよ。


「はっはっ! お前以外の誰にこの森が渡せようか! 今日わしの家に上がってきた奴らも、わしの目が黒かったら門前払いするような奴ばっかりじゃ」


 ――だからといって――


「とにかく。お前しかいないのだ」


 ――はぁ、わかったよ。それで、伝えたいことってそれだけ?


「いや、本題はこれからじゃ。お前、この森がどうして『天神ノ森』と呼ばれているか知っておるか?」


 ――それは祖父ちゃんの名前と苗字から一文字ずつ取って……というやつだろ?


「残念ながらそれは建前じゃ。第一、わしが生まれる前からここは『天神ノ森』と呼ばれておった」


 ――じゃあどうして?


「それはな幸樹、その名の通りこの森には天神さまが住んでいるからなのだ。わし自身、直接見たことこそないが、不思議な目に何度も遇っておる。わしがこの森だけは手放さなかったのも、この森を愛していること以前に、手放せなかったというのが大きな理由なんじゃ」


 ――なるほど、なんとなく話が見えてきたよ祖父ちゃん。天神さまを金に目がくらんでいるあいつらに任せるわけにはいかないってことか。


「賢い孫で助かったわい。この森を破壊したり燃やしたりしたら、間違いなく祟りが起こる。だからわしは、この森を愛してくれるお前に託さなければならないのじゃ」


 ――そういうことなら、引き受けないわけにもいかないか。俺もこの森が大好きだからね。


「……よし。さすがじゃ。……おっと、そろそろ別れの時間のようじゃ。しばらくはもう顔を合わせることもあるまい。お前が死んでしまったそのときに、久方ぶりの再会を果たすとしよう」


 祖父は少しずつ輪郭を失いながら、そんなことを口にする。


 待ってよ! なんて言葉を発する前に、祖父の幻は消え去ってしまった。……まあ、幻だからどう頑張ったって待ってはくれないだろう。あるいは自己暗示をかけて幻を見続けるというのも一つの手ではあったかもしれないが。


 でもこれで、ようやく腑に落ちた。祖父ちゃんが俺に森を任せた理由、誰にもこの森を渡さなかった意味。この森が不思議と俺を惹きつけるのも、もしかしたらこれが一因なのかもしれないな。


 幻の言ったことを真に受けるというのも滑稽な話だとは思うが、理屈とか常識をあまり気にしない祖父の性格もあってか、なんとなくすんなりと受け入れることが出来た。ものすごく祖父ちゃんらしいと思うぜ。


 最後の最後の最後に、ようやく祖父ちゃんは俺に伝えてくれた。それは幻に過ぎなかったけど、幻よりも確かな意味を持って俺の道を示してくれた。


 そして、幻は俺にもう一つの事実を突きつける。



 ――祖父ちゃんは、もういないのだ。





 つっと水滴がひとすじ頬を伝った。

 どれぐらいの間ここに突っ立っていたのだろうか。いよいよ我慢の利かなくなった雨雲が森に恵みを与え始めていた。雨粒がそこらじゅうの木々に当たる音が徐々にテンポを上げていく。


 水滴で滲んだ視界を、真新しいシャツの袖口で拭った。

 俺もそろそろ帰ることにしよう。俺は風邪をひきたがるマゾヒストではないからな。


 春の雨は徐々に身体を冷やしていったが、ここに来た時よりもはっきりとした足取りで俺は歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る