第4話 「もう、思い出すことしか許されない」

 俺は大のお祖父ちゃん子だった。


 両親よりも祖父に懐き、夏休みや冬休みが来ると、その大半を祖父の家で過ごした。実家と祖父の家が近かったこともあり、学校帰りに遊びに行くことも日常茶飯事。祖父の家の側には、祖父の私有地である「天神ノてんじんのもり」が広がっており、俺はそこが大好きだった。


 祖父は孫である俺をとても可愛がってくれた。会いに行くと必ずといっていいほど手作りのおやつを用意してくれ、夏休みなどは宿題を教えてくれたりもした。祖父と過ごした時間は、どれも多彩な色を眩いほどに放っていた。


 そんな俺たちが共に過ごした時間は、大半は天神ノ森でのものだ。

 森には、何でもあった。カラフルな鳥たちのさえずり。優雅な木漏れ日のダンス。弾ける水音のコーラス。そして、滅多に笑わない祖父の、笑顔。


 祖父はとても優しかった。だがそれ以上に気難しい性格をしていると思われがちだったのだ。仏頂面でいることが多いため、知人友人は少なく、親戚一同のなかでさえも理解者は少ない。そんな祖父を理解していたといえるのは、唯一の孫である俺と、俺が小さいころに病気で息を引き取った祖母ぐらいだっただろうか。


 他人に対して愛想を使うことを嫌った祖父は、初対面の人にはとっつきづらく、他人から距離を置かれやすかった。誰に対しても本音のコミュニケーションを取ろうとするがゆえに、無意識のうちに他人を傷つけ、そして離れられてしまう。


 そんな祖父の表情を唯一優しくしてくれる場所が天神ノ森だった。この地域一帯の大地主だった祖父が、唯一売却も貸与もせずに守り抜いた森は、どことなく神秘的で不思議な魅力をたたえていた。孫である俺もその魅力に取りつかれた一人であることは、もはや言うまでもない。


 あの森は、俺と祖父ちゃんにとって、幸せそのものだった。




 うっそうと茂った森の前に建つ色あせた日本家屋の前で、エンジン音は止まった。


「着いたぞ」


 そんなことは言われなくともわかっている。俺は重くなった頭と体を無理やり動かすと、後部座席から外に出た。


 ふっと、緑の香りが鼻をつく。


「兄貴のところは、もう来ているみたいだな」


 そう言うと父は、隣に止まった白のワンボックスカーに目を向ける。


「雨も降ってきそうですし、私たちも早いとこ上がらせてもらいましょう」


 母の言葉に父はうなずき、玄関に向けて歩き始めた。


 俺はあの後、高校に迎えに来ていた両親の車に乗せられ、祖父の家に向かった。俺の自宅から徒歩数分の距離にある祖父の家に到着するまでには、ものの十数分とかからない。

 その間俺は、ぼんやりと窓の外を眺めながら、とりともめもなく溢れてくる思い出に浸っていた。


「それにしてもこの間まであんなに元気だったのに……残念だわ……」


 ズシャリズシャリと、敷き詰められた砂利が音を立てる。耳障りだ。


「でも、これでようやく世代交代だな。兄貴といろいろ話し合わなきゃならん」


 軋む玄関に手をかけながら父は言う。


 ……ふざけるなと憤慨するべきか、やはりかと落胆すべきか。


 祖父が亡くなったことに対して、心からの悲しみを抱いているのは恐らく俺だけだ。実の息子である父ですら涙の一粒すら見せることなく、祖父が持っていた大量の土地を含んだ莫大な資産の引き継ぎで頭がいっぱいの有様だからな。

 他人に理解されにくかった祖父は、親戚にすら煙たがられていた。こうやって祖父の家に集まり始めている人々も、大半はその遺産の行方だけを知りに来ているのだろう。


 いつもと違って大量の靴が並べられている玄関を抜け、俺達は祖父の寝室へ向かう。


 聞いた話によると、たまたま訪れた近所の方が、祖父が出てこないことを不審に思って連絡したことで祖父の死は発覚したらしい。本当に眠るように死んでしまっていたそうだ。祖父は病気ひとつしない身体だったので、おそらくは老衰だろう。


 塵一つない板張りの廊下を進み祖父の部屋に入ると、安らかな顔をした祖父が布団に横たわっていた。


「祖父ちゃん……」


 周りには伯父一家を含む数名の親族が座っており、皆一様に悲痛な表情を浮かべている……ふりだ。


「おお、来たか」


 伯父は親しげな笑みを少し浮かべて、直後にもとの表情に戻した。


「まあ……親父も年だったしな。そろそろこんな風になるんじゃないかとは思っていたが、こんなにも早くお迎えが来ちまうとはな……」


 そう言って伯父はこちらを見る。


「幸樹君はいつも親父の側にいたから、さぞ悲しいとは思うが、あんまり気を落とさないでくれよ。親父だって君のそんな顔は見たくないはずだろうから」


 きっと今の俺はものすごい表情をしているのだろう。なにせ悲しみやら悔しさやら何やらで感情がごちゃ混ぜなのだ。まともな表情をしているわけがない。かろうじて涙こそ流れていなかったが、それもただ単に、涙を流せるだけの心の整理がついていないだけだろう。

    

 もう、何もわからない。


 俺は祖父の脇に正座して、手を合わせることにした。改めて見ると、祖父の顔はとても穏やかだった。まるで今にも起きだして、いつものように森に出かけ始めるかのように。


 部屋に置かれているアンティーク調の置き時計の長針が九十度は回ったんじゃないかと思われるほどの時間が過ぎたのち、ふと思った。


 俺は祖父ちゃんに何も伝えられなかったのだと。


 いつまでもそばにいてくれると妄信して、失うことはないと油断して、残り時間を過信して。


 俺は、何もしなかった。


 ――だから、せめて最期は、な。


「祖父ちゃん……」



 今まで、ありがとう。

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