【UFOの日】あり得たかもしれない未来との距離
本日6月24日はUFOの日です!
というわけで、この日ばかりは、普段あまり直視することのできない『イリヤの空UFOの夏 その4』を開き、あの夏をもう一度追体験しようかと思います。
それは、セミが鳴き、輸送機が飛び戦闘機が飛び、UFOが飛ぶかもしれなかったあの夏の物語。
それは、血まみれになって虫を抉り出し、伊里野の手を引いて逃げ出したあの夏の物語。
それは、瑞っ子の血が覚えている物語です。
さて、『秋山節の正体②~無力な語り部~』 https://kakuyomu.jp/works/1177354054888318676/episodes/1177354054918865106
でも取り上げましたが、秋山作品の特徴の一つにノスタルジックな語り口を上げることができます。そしてそのノスタルジックさを演出するものとして、秋山では「届かない距離」というモチーフが繰り返し登場します。
人間とロボット間の壁。
叶うはずのない願い。
作者視点ですら憶測でしか語れない物語。
そうした、「届かない」「叶わない」存在や事象は、私達の心に決して忘れられない爪痕を残します。
ここでは、『イリヤの空UFOの夏 その4 最後の道』より、伊里野との逃避行に行き詰まった浅羽が、夏の残骸が散らばる浜辺に立ち尽くし、海の向こうにあり得たかもしれないトゥルーエンドを夢想するシーンを取り上げます。
①もう一度だけ、と浅羽は思う、
②もう一度だけ立ち上がってみようか。もう一度だけ立ち上がって、伊里野の手を引いて歩き出そうか。どこまで行けるかやってみようか。④最後の道は、この海の向こうにまで続いているのかもしれない。もう一度だけ立ち上がって、伊里野の手を引いて歩き出して、どこか近くの港を探して外国の船に密航して、この海の
⑤本当の終点は、きっと、地球を半周もしたところにある南の島だ。
⑥CIAの衛星写真にも載っていないような、小さな
⑦いくつもの港を経て、何度も何度も密航を
⑧そして、その街角には小さな床屋がある。
(中略)
⑨床屋仕事ならできます、ここで働かせてくれませんか。
⑩自分は言葉ができない。伊里野は床屋ができない。だから最初は二人で一人前だ。自分は伊里野に床屋仕事を教え、伊里野は自分に言葉を教えながら
(中略)
⑪時が流れていく。
⑫それから色々なことがあって、浅羽は今、店の裏庭にある木の下に椅子を出して、八歳になる孫娘の髪を切っているところだ。巨大な太陽が海に没する時間。自分がたどってきた道を振り返りたくなる時間。孫娘は伊里野に生き写しで、近ごろでは
⑬おじいちゃんとおばあちゃんはこの島の生まれじゃないってほんと?
そうだよ。最後の道をたどってきたら、この島にたどり着いたんだ。
最後の道って?
おじいちゃんとあばあちゃんが、ずっと手をつないで歩いてきた道だよ。
その道のおしまいがこの島?
そうだよ。
⑭じゃあ、始まりは? その道はどこから始まってたの?
浅羽はふと手を休め、そもそもの道の始まりに思いを
⑮めちゃくちゃ気持ちいいぞ、って
だから、自分もやろうって決めたんだ。
山ごもりから帰り道に、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと思ったんだ。
秋山瑞人(2003)『イリヤの空UFOの夏 その4』p220
この想像は、本編の中で決して実現することのなかった展開でしかありません。
とはいえ、イリヤの元ネタたる『妖精作戦』では、最終巻にて南の島に逃避行するシーンもあり、読者の想像する「あり得たかもしれない未来」として十分に機能する想定になっています。
①~④までは、浅羽の独白です。
夏の残骸が転がる浜辺で、もうこれ以上どこにも行くことのできない終点で、もう一度だけ心を奮い立たせようとしている浅羽の心の声です。
一見して気がつくのは、同じ言葉の繰り返しが多い点です。
「もう一度」「立ち上がる」「イリヤの手を引く」「歩き出す」といった言葉が繰り返され、中々先に進まない文章表現が、かえって浅羽の萎えきった状態からの再起を表しているように感じられます。
いわば、地面に倒れ伏したボクサーがもう一度よろよろと起き上がるかのような表現になっていると言えるでしょう。
⑤⑥では、「地球を半周する」「CIAの衛星写真」と一点して世界的な視野へと大きくズームアウトを行っています。どちらも、地球全体の映像が脳裏に浮かぶような表現となっているのは、偶然とは考えにくいでしょう。
秋山先生は、プールの凪いだ水面を表現するために何光年もの彼方の星を描写する作家です。こうした変幻自在のカメラワークはお手の物ではあります。
そうして、視点がグローバルサイズになったお陰で、⑦の旅路は細部が曖昧であっても不自然ではなくなっています。
おそらく、⑤において先にゴールを提示しておいたことも読者の理解の助けとなっているでしょう。
⑨⑩は、本当に、本当に、あり得たかもしれない未来として、こんな未来が訪れたらどんなにいいだろうかと読者が思い続けるような未来です。
肉体的にも精神的にも未熟な主人公たちが、各々の持つ僅かなスキルを活かして支えあい、見知らぬ異国の地で懸命に働きながら生きていく。
これは、浅羽の想像という体裁を取りながら、作者と読者の切実な願いともなっているように思います。
文章量の都合で中略としている箇所には、アロハシャツを着た榎本が現れて戦争が終わったことを伝えたり、床屋の親父が「お前たちが結婚したら引退する」として伊里野との結婚式が描かれたりと秋山節の光るコミカルな想像が描かれていますが、そうしたコミカルさが、このシーンでは「あり得たかもしれない未来」の寂寥感を増幅させることになります。
そして、⑪から始まる孫娘との会話は、『これまでの物語』と『あり得たかもしれない未来』を走馬灯のように振り返る流れとなり、あたかもこの想像が実際に起きたことであるかのように感じさせる効果を与えています。
そして、まるで最初からこの展開を想定していたかのように、一巻冒頭の⑮の独白が始まります。
一巻の冒頭では語尾が、「~が言っていた」「~って決めた」「~と思った」だったものが、ここでは「言っていたんだ」「って決めたんだ」「思ったんだ」と「んだ」が追加されることで、より語り聞かせている雰囲気を出しています。
これが本当のエンディングであればどれほどいいか。
物語の最後に冒頭に帰る美しい結末。
幸せな人生の終末期。
それらを「決して届かない想像の中の出来事」として無限遠の彼方に描写するのは、まさに秋山節の真骨頂と言えるでしょう。
最後に、この想像の中には、伊里野の「声」や「表情」がほとんどないことにも気付かされます。
省略した部分を含めても、床屋の親父や孫娘といった架空の存在や榎本などは描かれても、結婚式での伊里野の表情や言葉はありません。「いまさら」という感じで祝福する島の人達や伊里野のことを娘のように思っている牧師が登場して祝福されることで幸せな雰囲気は十分に伝わるものの、伊里野自身の口からは「幸せ」とも「ありがとう」とも発せられません。
おそらく、浅羽自身の罪悪感からのためらいが想像の中にも現れているのだと思います。
このシーンの時点では、伊里野は浅羽の心無い言葉に引き裂かれ、退行状態に陥ってしまっている状況にあります。
そうした状況から、たとえ伊里野のために逃避行を続けている事実があろうとも、浅羽は自分にとって都合のいい妄想の中で、伊里野の「幸せな様子」を想像することをためらったのではないかと想像します。
やはり、秋山先生のキャラクター描写の解像度は異常だと思わずにいられません。
今年のUFOの日も、イリヤを読みつつE.G.Fを待ちたいと思います。
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