【鉄コミ電子化!】悠久の時間描写と秋山節の真骨頂

来たる3月31日、ついに、鉄コミュニケイションのkindle版が出版されます!


何度か書いたことがあるのですが、私は、秋山作品の中で一番完成度が高いのは「イリヤの空UFOの夏」、一番人に勧めたいのは「猫の地球儀」、一番すごい作品は、「E.G.コンバット」だと思っていますが、一番好きな作品は、この「鉄コミュニケイション」です!


発行部数があまりにも少ないため、イリヤが出版された当時ですら、とんでもなく遠くの本屋に足を伸ばしてようやく見つけられたような本で、今では中古価格が何千円もするような有り様でしたが、これで! ようやく! 秋山瑞人先生の最高傑作が、2巻合わせてもわずか1400円足らずで手に入るのです!

買いましょう! 読みましょう! 震えましょう!

そして、E.G.コンバットの最終巻を待ちましょう!


さて、この鉄コミュニケイションですが、秋山作品の中でも、時間の捉え方が非常に独特であり、全編にノスタルジックな雰囲気が漂っております。

このことは、「秋山節の正体②無力な語り手」でも取り上げましたが、

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888318676/episodes/1177354054918865106

ここでは、「鉄コミュニケイション②」より、作者視点とハルカ視点が混ざり合う複雑な多元視点で、ノスタルジックな雄大さと生身の人間の感傷とを同時に描き切ったシーンを取り上げます。


物語の中で出会ったイーヴァとルークが、ハルカの元を去った後のシーンです。



①誰もいなくなってしまったこの星の、大きな風車が立ち並ぶこの丘の、そのてっぺんのこの場所に、クッキーの缶に入った、絆創膏が貼りつけられたフリスビーが埋まっている。

②それは、イーヴァと、ルークと、わたしだけが知っている秘密だ。

③この場所に埋めたクッキーの缶は、イーヴァやルークやわたしが掘り出さない限り、ずうっとずうっと、街と荒野と丘の緑を見下ろせるこの場所に埋まっているのだ。④このクッキーの缶は、ひょっとしたら、何十年も、何百年も、この場所に埋まっているかもしれない。 ⑤何十年も何百年も経って、わたしもイーヴァもルークも、スパイク君もアンジェラさんもリーブスさんもクレリックさんもトリガー君も、誰も彼もいなくなっちゃってからもずうっと、この場所に埋まっているのかもしれない。

⑥いつの日か、誰かがこの缶を見つけるだろう。

⑦ひょっとしたら、それは、何千年も先のことかもしれない。

⑧そのとき、この丘からは一体何が見えるだろう。⑨廃虚の街のあった場所には、緑の島が見えるかもしれない。⑩なんにもない荒野じゃなくて、林と川と草原が見えるかもしれない。⑪丘のふもとには、とっくの昔に動くのをやめた発電風車が、ツタをいっぱいにからめた緑色の巨人みたいに立ち並んでいるのかもしれない。

⑫いんちきな雨が、ゆっくりと上がっていく。

⑬ハルカは木の葉の間から空を見上げ、フリスビーを手にして立ち上がった。⑭風が枝を揺らし、いくつものしずくがハルカの顔に降りかかる。

⑮終わりはしない。

⑯ハルカの夏休みは終わらない。

⑰それは、いつまでも、いつまでも続く。

⑱頬を伝い落ちるしずくは、熱かった。


秋山瑞人(1999)『鉄コミュニケイション②チェスゲーム』p373


この作品は、同名漫画のノベライズであり、戦争によって世界が滅びてから30年、コールドスリープで唯一生き残った推定13歳の少女が5人のロボットともに生活をしている様子を描いた作品です。


その設定を受け継いで、小説では、①にあるような「誰もいなくなってしまったこの星」というフレーズが何度も繰り返されます。

何気ない表現ですが、これは、ほんの一文で、荒野の広がる星全体のイメージを喚起させることに成功しています。

さて、ここで「誰もいなくなった星」という広大な空間を描写することにはどんな意味があるのでしょうか。

広い空間は、「自由」や「開放感」を演出することもできますが、ここで最も強く感じるのは「寂寥感」でしょう。広い空間は、孤独感や寂しさを描写するのにも効果を発揮します。


そして、この広い空間から、徐々に描写範囲を狭めていき、やがてクッキーの缶というちっぽけなものに焦点が当たることになります。


小説は、唐突に宇宙の始まりを描写することも許されている媒体であり、秋山先生は、プールの水面を描写するために何光年もの彼方の星の光を持ち出したこともありますが、空間や時間の使い方が本当に神がかっています。


②の秘密と言うフレーズも、その直前に、広大な土地を描写したからこそ、本当に誰も知らない秘密と言うニュアンスが出てきます。


そして、③から⑤までの間で、今度は空間ではなく、時間方向に広がりを移し、さらなる雄大さの中で、誰もいなくなってしまってからも埋まっている宝物を描写していきます。


しかも、その宝物は、決して金銀財宝のようなものではなく、極めて個人的な、ハルカと、ルークと、イーヴァの間だけでしか通じないものです。


戦争で、人類が滅びてしまった黄昏の世界で、人間であるハルカと、無機質なロボットたちが触れ合った証である宝物。


ここから、⑥では、いつか誰かが、それを見つけるかもしれないという想像を広げることによって、何千年という悠久の時間へと描写を広げていきます。

そして、その広げられた⑧〜⑪の中では、廃墟や動きを止めた風車の間に、再生を意味する緑のツタや川や草原が描写されています。


ここで、⑫から⑱までは、視点の取り方が非常に独特です。

これまで一貫してはるかの独白であったのが、13によって、はっきりと作者視点に切り替わります。

作者視点に切り替わったことで、外面からの描写が行われていますが、そうした描写はラストの描写への布石となっています。


さて、⑮から⑰までは、作者視点での独白となり、まさにこれぞ、秋山節であるというような熱の入った語り口です。


ただ、最後に⑱があることによって、ただの、作者の独りよがりのエールではなくなる

という点が、秋山節の秋山節たる所以です。


⑱は、どう考えても、ハルカの独白です。

特に、主観的でなければあり得ない「熱かった」という触覚表現を使うことによってはっきりと1人称であることを示しています。


ただ「熱かった」を読むまでの間に読者の脳裏に想起されるのは、「頬を伝い落ちるしずく」の映像でしょう。

そして、「しずく」とぼやかされて語られていること、そのしずくが「熱い」ことから、読者の脳裏には、ハルカが雨の中で温かな涙を流している姿が、しかも、「顔を隠しながら泣いている姿」が再生され、しかも、「熱かった」という触覚表現によって、最後にはハルカの感覚と同調する流れになり、読者は感情移入をせずにはいられません。


秋山先生の信条は、「小説でしか書けないものを書く」ということであるのをインタビューなどで拝見しますが、これほどまでに「小説でしかできない描写」を極めた作家を私は知りません。


まさに、秋山節の真骨頂と言えるでしょう。


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