秋山節の正体⑤ ライトノベル的なディフォルメ

星雲賞を受賞するなどSFが界隈でも活躍された秋山先生ですが、その主戦場は電撃文庫であり、電撃文庫とはライトノベルのレーベルです。


そして、秋山先生の文章にもライトノベル的な要素が色濃くあります。


ライトノベル的な文章とは何か、という問いには非常に多くの回答があるかと思いますが、ここでは、「ディフォルメ度合い」に焦点を絞ってみましょう。


ライトノベルとは、よくも悪くも漫画やアニメ、ゲームを源流とした小説だと言えます。

新井素子先生が新人賞の受賞の際に「ルパンのような小説が書きたかった」と答えたという話は有名ですが、ここでは「現実のような小説」ではなく、「アニメのような小説」という意味でライトノベルを捉えようと思います。


その「アニメのような」を支える要素として、「ディフォルメ」が挙げられます。

ディフォルメとは、一部を強調、誇張、簡略化、変形などすることによって表現する技法です。


例えば、アニメや漫画ではキャラクターが突然ハリセンを持って頭を叩きはじめても、対して違和感がありませんが、現実にはどこからともなく小道具が出現することは、まずありません。


他にも、異常に耐久力が高かったり、ふっとばされたり、また、ライトノベルには類型的なキャラクターが存在し、ある程度「お約束」に沿った形で行動する点もディフォルメの一種でしょう。


さて、秋山作品で最大のディフォルメキャラといえば、水前寺邦博です。



園原中学校の三年二組に水前寺邦博という実にハイスペックな男がいる。出席番号は十二番で、十五歳にして175センチの長身で、全国模試の偏差値は81で、100メートルを十一秒で走り、顔だってまずくはない。

秋山瑞人(2001)『イリヤの空 UFOの夏その1』第三種接近遭遇p41



類型化された理解を受け入れやすいディフォルメ世界の中では受け入れやすいですが、写実的な小説世界ではステレオタイプと批判を受けるかもしれません。


秋山先生自身は、自分のキャラクターは「類型的だけど解像度が高い」と表現しており、イリヤも「UFO綾波」だとはっきり語っています。


そして、こうしたディフォルメ表現を重ねることによって、世界観自体がディフォルメ化され、漫画的な演出が不可能ではない作品世界へと変貌を遂げます。


結果として、水前寺は、

・バイクチェイスの末にガードレールに激突して宙を舞っても、川に落ちたからセーフ

・頭にハサミが刺さっていても、『いたいいたい刺さってる』で済む。

・催眠術をかけられて前世の記憶を呼び起こされる

といった漫画的演出が実に似合う男になっており、


晶穂からもこんな風に扱われています。


 それもこれも部長のせいだと思う。

 ふと半ば真剣に思う。水前寺すいぜんじテーマは季節と共に移ろいゆく、などというのは実は真っ赤なウソで、本当は季節の方が水前寺テーマに支配されているのではないか。常人のそれを倍する密度で日々を生きるあの男なら、あの男がかくあれかしと望むなら、時の歩みを遅くすることすらかなうのではないか。

秋山瑞人(2002)『イリヤの空 UFOの夏その3』無銭飲食列伝p17


そうしたスーパーマンのようなキャラクターとして描かれた水前寺であるがゆえに、伊里野において「血の流れない世界」から「血の流れる世界」への転換点に『水前寺応答せよ』が置かれ、水前寺の退場が世界観の転換の合図となっている点には注意が必要です。


同様の演出は、賀東招二の『フルメタル・パニック』シリーズでも使用されています。

長編でシリアス、短編でギャグという切り分けをしていたこの作品で、『つづくオン・マイ・オウン』において長編に短編の超人キャラクターである生徒会長の林水が現れ、退場します。

そして、その退場を転換点として、主人公の宗介は「終わらない高校生活」の世界から戦場へと舞台を移すことになります。



さて、一方で、秋山作品は、生々しい痛みや感情を表現してもいます。

漫画やアニメ的な雰囲気を再現するライトノベルは、写実的な作品に比べて痛みや感情表現に劣るのでしょうか。

以下の箇所を見てみましょう。


「いや!!」

 直後、榎本の上体がひるがえった。

 伊里野いりや身体からだはじけ飛び、色とりどりのボールが並ぶスチールラックに背中から激突した。

 榎本えのもとの動きは小さく、一瞬いっしゅんだった。

 表情も終始変わらなかった。

 テレビドラマのそれのように、胸のすくようないい音も聞こえなかった。

 だから、その場で見ていたはずの五人は、伊里野が榎本にこぶしで殴られたのだということをすぐには理解できなかった。伊里野がぐったりと床に崩折れる。胸元に血が滴り落ちる。


秋山瑞人(2002)『イリヤの空 UFOの夏その3』水前寺応答せよ(前編)p137


この箇所は、それまで飄々とした「血の流れない世界の住人」として描かれていた榎本が、転換する瞬間を描いたシリアスなシーンです。

ただし、表現においては、「身体が弾け飛ぶ」「スチールラックに背中から激突する」など、映像的に誇張された部分も見られ、決して写実的な書き方をしているわけではありません。


考えてみれば、漫画やアニメが実写に比べて感情表現に劣るということはなく、ディフォルメによって強調、誇張された世界がより強く何かを表現できるということはあります。


例えば、多くのパトル漫画の主人公は異常な耐久性や回復力を持つことが多いですが、それによって痛みに耐えて戦う意志の強さを表現できています。


ただし、こうした「アニメや漫画のような小説」を表現する裏には、秋山先生の持つ誇張や強調の技術があるのだということには注意が必要でしょう。


本論で扱った中でも、

音のない世界の描写

https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054888318676/episodes/1177354054888444726


時間的特異点の描写(同時多発視点)

https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054888318676/episodes/1177354054888543013


などは、非常にライトノベル的な演出として、ライトノベルを書く際のお手本となるのではないかと思います。


以上のように、秋山作品では、強調、誇張を非常にうまく利用して表現の振り幅を広げていることがわかります。

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