反響音による茫然自失の表現
さまざまな雑音を混ぜていくと、ホワイトノイズという音を作ることが出来ます。これは決して音がない状態ではないのですが、意味のある情報をとりだせないという意味で、無音に等しい状態です。
衝撃的なことに出くわして茫然自失の状態に陥ったときの状態は、このホワイトノイズに似ています。決して何も考えていないわけではないのに、頭に湧き上がって来る事柄が多すぎてノイズと化してしまう。
ここでは、『イリヤの空UFOの夏』第1巻の第三種接近遭遇から茫然自失とした状態をセミの声によって表現した箇所を取り上げて考察してみましょう。
背景のノイズとして埋もれていた①セミの声が意識の上層に昇ってくる。夏の日射しはどこにも影を作らず、砂利の敷きつめられた駐車スペースはガラガラで、どこかで見た憶えのある白いバンだけが陽炎をまとい、
身体が凍りついた。
あの男がいた。
白いバンの隣に、あの男が立っていた。
プールサイドに現れて、用務員のカミナリおやじの話をした、若いくせに老人のように擦り切れた雰囲気を隠し持っていた、あの男だった。
男はゆうべと似たようなスーツを着て、昨夜のように上着を肩にかけて、昨夜はしていなかったネクタイをしていた。額に手をかざして校舎を見上げている。そして男はすぐに浅羽に気づき、「思いがけない奴に会った」という顔をして、ゆうべのように顔中で笑って、右から左へ一度だけ手を振ってよこした。
河口が喋っている。
その声が自動的に耳に流れ込んでくる。
「あー、事情があってホームルームには間に合わなかったが、飯塚先生のこの時間を少々お借りして、」
②セミの声が次第に大きくなる。
予感、などという生やさしいものではなかった。
浅羽はゆっくりと、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
教室の中を振り返った。
伊里野加奈
きれいな字で、黒板にはそう書いてあった。
あの女の子が、教壇に立っていた。いかにも真新しい夏服を着て、まるで一年生のようにぴかぴかの鞄を手に下げて、まだ一度も下駄箱に入ったことのない上履きをはいて、両の手首にリストバンドをつけて。
③セミの声がどんどん大きくなる。
河口が何か言っている。転校生を紹介する、河口の口元がそう動いている。しかし、その言葉はもう浅羽には聞こえていない。教室中のざわめきも聞こえてはいない。そのくせ、女の子の声は、生まれて初めて口にする単語だけで喋っているようなあの不器用な声だけは、はっきりと聞こえた。
「伊里野、加奈です」
偽名に決まっている、と心のどこかで思った。
④頭の中にセミがいる。
女の子は名乗り、何度も練習してどうにかここまでになった、という感じのお辞儀をする。
そして、窓際の席で身動きもままならない浅羽を、じっと見つめる。
考えてみれば当たり前だ、と浅羽は思う。
夏休みが終わると同時に、夏が終わるわけではないのだ。
夏は、あとしばらくは続くのだ。
UFOの夏だった。
秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p74
この箇所では、ほんの二~三ページの間に、本筋とは何の関係もない蝉の声をという描写が四度も繰り返されて登場します。①~④で、セミの声は次第に大きくなり、浅羽の頭にホワイトノイズのように鳴り響き続けます。
秋山先生の文章では、本筋の情景描写に対して背景としての描写が入りこんでくることが多く、描写に立体的な広がりをもたせています。
①では,単純に夏の暑さを際立たせる描写の一部としてセミは登場します。その後、謎の男の再登場のタイミングから、浅羽は思考停止と戦慄に脳内を支配され始めます。②で次第に大きくなっていくセミの声は、まるで、心臓の鼓動が高まるかのような効果をあげています。
③において、浅羽の脳内はセミの音に支配されます。
それをうまく表しているのは、担任の河口の描写でしょう。
河口が何か言っている。転校生を紹介する、河口の口元がそう動いている。しかし、その言葉はもう浅羽には聞こえていない。教室中のざわめきも聞こえてはいない。そのくせ、女の子の声は、生まれて初めて口にする単語だけで喋っているようなあの不器用な声だけは、はっきりと聞こえた。
言葉は、口元の動きとして表現され、音声は届いていないという説明がされます。そして、そのホワイトノイズの中で、女の子の声だけが耳に届くというギミックによって、浅羽にとっての伊里野の存在感が強烈に印象付けられます。
④において、セミの声は頭の中に入り込みます。
外でセミが鳴いているのは間違いないのでしょうが、この表現によって、それまで次第に大きくなってきたセミの声は、物理的な意味でのセミの声ではなく、浅羽の頭に渦巻いている思考の渦のようなものだったことがわかります。
セミの声という背景情報を発端にして、浅羽の心理描写に見事につなげていることがおわかりいただけたかと思います。
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