空間認識とパニック描写(視座喪失法)

 三人称における描写の混乱は、しばしば、視座(カメラ)の位置を明確にせずに描写を行うために起こります。

 つまり、カメラの位置が分からない状態では、読者も描写を理解できないのです。

 ただ、それを逆手にとって、自分の位置が分からないことを描写することによってパニックを描写する方法もあります。次の文章は『イリヤの空UFOの夏 その1』第三種接近遭遇から浅羽が伊里野にしがみつかれてプールで溺れそうになったシーンの描写です。


①パニックに陥った。

②あっという間にわけがわからなくなった。③手を伸ばせば届くはずのプールの縁がどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体は上を向いているのか下を向いているのか。④太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。⑤女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。⑥信じられないくらいの力だった。⑦このままでは自分も溺れると浅羽は本気で思った。⑧ここは足がつくのだ、ここはプールの緑のすぐそばなのだ、懸命に自分にそう言い聞かせ、両足と片腕で夢中になって水の中を探った。

⑨プールの緑に指先が触れた。

⑩プールの底に爪先が触れた。

⑪どうにか体勢を立て直してた。⑫やっとのことで二人の頭が水の上に出る。

         秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p24


①②では、描写の下準備をするために、これから描写する内容の抽象的な総括表現が行われます。

 いわば描写内容のテーマです。

 そして続く③がここの描写のキーポイントになります。



③手を伸ばせば届くはずのプールの縁がどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体は上を向いているのか下を向いているのか。



 上下の方向感覚が失われ、さらに平衡感覚が失われていることを描写することによって浅羽の混乱を表現しています。



④太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。⑤女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。⑥信じられないくらいの力だった。



 続いて④は③を強めるための比喩表現。さらに⑤~⑦では、触覚を中心とした描写を行うことで、視覚と聴覚が潰されて情報が得られていないことを際立たせています。


 さて、⑨⑩⑪ではこれまでの混乱が収束するのですが、それは、指先と爪先、つまり手と足が確固たる地盤を得ることによって表現されています。つまり、自分の身体のしたのです。


⑨プールの緑に指先が触れた。

⑩プールの底に爪先が触れた。

⑪どうにか体勢を立て直してた。⑫やっとのことで二人の頭が水の上に出る。


 視座の位置を念頭に置くことは、分かりやすい描写のために欠かせない事柄ですが、逆に、一人称的な文章を書く場合には、このような表現も可能であることがわかります。

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