目を閉じることの表現効果(視覚遮断法)
今回は、三人称小説の中で一人称的な表現を強めるための技法として、視覚を遮断する方法を取り上げます。
視覚とは、自分の見た景色と他人の見た景色がほぼ一致するという意味で、客観性が非常に強い感覚です。
その視覚を遮断し、聴覚や触覚情報のように主観性の強い感覚で描写をすることによって、三人称小説の中でも一人称性の強い表現が可能になるのです。
ここでは、『イリヤの空UFOの夏その2 十八時四十七分三十二秒・後編』より、浅羽が、伊里野の呼び出しで六番山の頂上を目指すシーンを取り上げます。
①道が細くなる。
②木立が頭上に覆い被さってくる。
③汗がひどくて目を開けていられない。
④そして、周囲の光景が唐突に開けた。
⑤浅羽はそのことを、汗だくの肌に夕焼けの日差しが戻ってきたことで知った。⑥流れ落ちる汗に目を閉じたまま、しばらくまっすぐに歩いた。⑦風が流れている。⑧両足に絡む草を感じる。
⑨立ち止まり、目を開けた。
⑩緑。
⑪小学生のころに見た光景とどこも変わっていない。⑫草の海は膝までの深さで、五時の方角から十一時の方角へと走る風のうねりがはっきりと見える。⑬眼下に広がる果てしのない緑の広がりと、丘の稜線の彼方に遠のいてしまった街の姿。
⑭六番山の頂上だった。
秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏その2』十八時四十七分三十二秒・後編
このシーンで、もっとも目を引くのは、やはり、山頂へとたどり着いた瞬間の⑨⑩の描写でしょう。
⑨立ち止まり、目を開けた。
⑩緑。
私が初めてこの文章を読んだときには、一瞬時間が止まったかのような錯覚を覚えました。
その効果が、どのような表現によって支えられているのか、やはり一文一文を追っていくことで分析していきましょう。
まず、①から③までは、道が険しさを増していく様子を描写しています。
道が細くなり、頭上が木に覆い隠され、汗がひどくて目を開けていられない。
そんな状況を書き出すことによって、後に続く「視界の開かれ」を強く印象づける効果があると考えられます。
しかし、次の
④そして、周囲の光景が唐突に開けた。
において、浅羽の視界は唐突に開けてしまいます。
もしもこの文章がここを終着点としていたなら、あまりにもあっけなく、人によっては突拍子もない結末とさえ感じるかもしれません。
ところが、実際にはそうはなっていません。
それは、ここでの「開き」が本当の意味での「視界の開き」を意味していないからです。
⑤以降を読めば分かりますが、この時点で、浅羽は目を閉じています。
つまり、本当の
しかも、ここでの描写から、終着点は浅羽が目を開けたその瞬間になる、ということがぼんやりと予測できるようになります。先を続けましょう。
続く⑤~⑧では、徹底して一人称的に描写が行われています。
⑤浅羽はそのことを、汗だくの肌に夕焼けの日差しが戻ってきたことで知った。⑥流れ落ちる汗に目を閉じたまま、しばらくまっすぐに歩いた。⑦風が流れている。⑧両足に絡む草を感じる。
それはおそらく、クライマックスである⑨⑩を前に、読者を作品世界に没入させるためだと思われます。
では、⑤~⑧において、一人称的な文章を書くために成されている工夫について詳細に追っていくことにしましょう。
まず、最初の工夫として、⑤において「浅羽は目を閉じていた」とは描写しなかったことが上げられます。
これはおそらく「浅羽は目を閉じていた」という文は三人称である『浅羽』を主語としており、浅羽を「外から」見た様子を連想させるからでしょう。
そのため、秋山先生は⑤では「肌に当たる夕焼けの日差し」という触覚描写と「そのことを知った」という思考描写によって浅羽が目を閉じていることを暗示的に描写するにとどめています。
なお、ここで用いられている触覚描写、思考描写もまた、一人称的な意味合いを強める性質があります。
さて、次の⑥においては、「流れ落ちる汗に目を閉じたまま」と目を閉じていることが明示されていますが、ここにも一工夫の跡が見られます。
それは、「目を閉じたまま、しばらくまっすぐに歩いた」と
あくまで「歩いた」ことを文章の中心に据えていることです。
このことにより、「目を閉じていた」という描写は背景へと潜り込み、流れるような文章のリズムが妨げられることなく続くことになります。
そして⑦⑧では、前節でも取り上げた『現在形の畳みかけ』が用いられています。
現在形の畳掛けを用いることによって、描写に臨場感を持たせると共に、一人称的雰囲気をさらに強めることができます。
しかも、「風が流れている」「両足に絡む草を感じる」ではどちらも一人称的性格の強い触覚表現を用いています。
以上の工夫により、限界まで高められた緊張感は、次の⑨⑩で一気に開放されます。
⑨立ち止まり、目を開けた。
⑩緑。
どうでしょうか。
山頂にたどり着き、目を開く瞬間が臨場感を持って描かれています。
なお、ここでは、短い文での改行が二行続いて用いられていることにも注目すべきでしょう。
この改行は、それまで一定のリズムで流れてきた文章を断ち切り、強調を行う効果があると考えられます。
改行の連続による効果については、また別の章立てでとりあげようと思います。
さて、文章はなおも続きます。
⑪小学生のころに見た光景とどこも変わっていない。⑫草の海は膝までの深さで、五時の方角から十一時の方角へと走る風のうねりがはっきりと見える。⑬眼下に広がる果てしのない緑の広がりと、丘の稜線の彼方に遠のいてしまった街の姿。
⑭六番山の頂上だった。
⑩ではまず「緑」という単一の色情報を用いて、目を開けた瞬間の浅羽の認識を再現していますが、以降は具体的な説明と描写に移っていきます。
ここでも、⑪~⑬にかけて一人称的な表現が多用されています。
まず、⑪においては目の前の光景と記憶との照合が行われます。
過去の記憶は個人的な体験であるため、文章の主観性を強めることができます。
次に⑫においては草の海を「膝までの深さ」と表現し、風のうねりを「五時の方角から十一時の方角」と表現しています。
ここでいう膝は浅羽自身の膝としか考えられず、「五時」「十一時」という方角も浅羽自身を起点とした方角であり、どちらも必然的に主観的要素を含む文章になります。
また、次の⑬は風景描写ですが、この場合もカメラの位置は浅羽自身に固定されています。
ここまでで、十分な描写が行われた後、⑭は「六番山の頂上だった」と、過去形の一行で締めくくっています。
過去形には、回想や叙述的な意味合いが強く、カメラワークでいえば、ズームアウトされた遠景に相当します。
⑪~⑬において細部を描写してきた最後に、遠景で締めることによって全体像を映し出す。
三人称的なカメラワークとしてもとても魅力的なカットになっているのではないでしょうか。
そういえば、その2の参照を書いてて思い出しましたが、『イリヤの空UFOの夏』は、その1とその2が連続刊行だったんですね。
実は,私が初めて買った秋山瑞人作品は、この『イリヤの空UFOの夏その2』でした。
その1は,駒都えーじさんのイラストに惹かれて本屋で適当にめくったのですが、買わず、次の月の模試の帰りにその2が出ていたのを見かけて、「うお、もう出てるのか、すごいな」と思って購入したのがすべての始まりでした。
2巻でハマって、1巻を買い、続きが待ち遠しくてhpに手を出し、猫とEGと鉄を探して本屋巡りをして、僕の瑞っ子人生が始まりました。
秋山先生の作品が2ヶ月続けて見れたなんて、2001年の10月と11月は、本当に時空が歪むほどの特異点だったんだな、と思います。
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