呆然自失の表現(他者指摘法)
本当に悲しいときは涙もでない、と言われることがあります。本当に悲しい時には、悲しいという認識すら希薄になり、ただ呆然とした時間だけが過ぎていきます。
では、そういった状態を描写するにはどのようにすればよいのでしょうか。
それには、単に「涙を流した」と書くだけでは不十分です。
ここでは、『イリヤの空UFOの夏 その4』の夏休みふたたび・後編より、伊里野の記憶の後退に気がついた浅羽が呆然とする中、記憶の世界に閉じこもった伊里野が無邪気な笑顔を見せるシーンを取り上げます。
このシーンは、全編が超絶技巧と言っても過言ではない『イリヤの空 UFOの夏』の中でも屈指の名シーンです。
心して味わいましょう。
①満天の星が輝き、蛍の舞う闇から湧き上がった虫の音が屋根の上にまで上ってくる。②まるで月の裏側のように、これまで浅羽が決して見ることのできなかった笑顔を浮かべて伊里野が笑っている。
③「ウ・シャヴテム、マイム、ヴェ・サソン、ミ・マイネイ、ハ・イェシュア。④そしてあなたたちは救いの井戸から水をくみ上げる。⑤ヘブライの歌詞。⑥旧約聖書のイザヤ書十二章三節。⑦マイムマイムは砂漠の踊り。⑧ネバダみたいな砂漠の踊り」
⑨浅羽はうつむく。⑩伊里野がその顔をのぞき込む。
⑪「――先坂、なんで泣いてるの?」
⑫記憶の退行が行き着いた先には、一体何があるのだろう。
⑬自分は一体、何を失おうとしているのだろう。
秋山瑞人(2003)『イリヤの空 UFOの夏』夏休みふたたび(後編)p163
満天の星空の下、笑顔を浮かべる伊里野と打ちひしがれる浅羽の対照が異様さを際立たせています。
ここでもっとも注目したいのは、やはり⑨~⑪での描写でしょう。
まず、ここが説明を担当する地の文であるにもかかわらず、浅羽が泣いている事実には言及していません。
ただ⑨において「うつむく」と表現するに留まっています。
そんな浅羽を伊里野はのぞき込み、告げます。「なんで泣いてるの?」と。
読者は、ここで初めて浅羽が泣いている事実に気がつきます。
そしておそらく、浅羽自身もまた、ここで初めて自分が泣いていることに気がついたのではないでしょうか。
浅羽は、悲しいとも泣きたいともいいません。
ただ、⑫⑬のように呆然とした頭で考え続けるだけです。
それが、罪悪感と絶望感に打ちひしがれた浅羽の心情をよく表現しています。
一人称的な表現では、自分の感情を自分で解説できてしまっては不自然なことが多くあります。
そもそも、自分の状態を客観的に語れるようならば、大したことではないのです。
このシーンで、他者から指摘されることによって初めて自分の状態に気がつくという演出(他者指摘法と呼ぶことにします)を取り入れたのは、そうした『語ることによる感情の陳腐化』を避けようとしたからでしょう。
結果として、読者は、浅羽の感情を文字としてではなく、まさに一体感を持って感じることができるようになります。たとえ書き込まれていなかったとしても、
ここでは確実に
読者が感じている感情=浅羽の感情
という図式を作り出すことができているのです。
では、他の箇所についても、最初から見ていきましょう。
まず①②の、
①満天の星が輝き、蛍の舞う闇から湧き上がった虫の音が屋根の上にまで上ってくる。②まるで月の裏側のように、これまで浅羽が決して見ることのできなかった笑顔を浮かべて伊里野が笑っている。
ここでは現在形が用いられ、カメラをクローズアップして切り替えながら描写をしています。
星空のきらめく暗闇を背景とし、その中に月のように輝く伊里野の笑顔が浮かび上がります。
しかし、その笑顔は決してみることのできないはずの「月の裏側」のような異質な存在です。
ここでは「星」と「月の裏側」がよく対応しており、形容表現の選択にも妙味を感じます。
続いて③~⑧では、伊里野が嬉しそうに旧約聖書の一節を読み上げています。
「満天の星」、「砂漠」、「救いの井戸」と印象的な単語が続き、あたかも夜の砂漠でキラキラと光る水を汲み上げているかのような、幻想的な光景が連想されます。
文化祭で踊るはずだったマイムマイム。
UFOと踊ったマイムマイム。
世間一般では、フォークダンスで踊る『垢抜けない曲』と認知されているマイムマイムをモチーフとして、これほどまでに印象的で幻想的な情景を描写できるとは、全く信じられない思いです。
そうして、⑨~⑪へとたどり着き、⑫⑬のモノローグでこの文章が締めくくられます。
このシーンは『夏休みふたたび(後編)』のラストシーンにあたっており、私が電撃hp誌上でこのシーンを読んだ際、しばらく呆然としたまま動けなくなってしまったことをよく覚えています。
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