日本語表現の基礎知識

現在形と過去形の表現効果

 さて、秋山先生の情景描写を具体的に見ていく前に、日本語の表現効果についていくつかまとめておきましょう。まずは、時制の表現効果です。


現在形、過去形とは本来は時制を表す語尾の変化であり、最も簡単な言葉としては「する」と「した」として表されます。

 ともあれ、小説の描写では現在形と過去形とが混在していることがしばしばあります。

 というよりも、どちらか一方だけで語られる小説がそもそも少ないのでしょう。


例) 

①放課後の昇降口で待ち伏せして、声をかけようとして息を吸い込んだその瞬間、伊里野とまともに口をきくのはこれが初めてであることに唐突に思い至った。②恐くて足が震えた。

③「伊里野」

 ④その一撃で伊里野は石になる。⑤危なっかしく身を屈めて、下から二段目の下駄箱からスニーカーを引き出そうとしたまま動かない。

      秋山瑞人(2002) 『イリヤの空UFOの夏 その3』 無銭飲食列伝


 ①、②は明らかに現在の出来事です。

 しかし、描写では過去形を使っています。しかも、特に時制が切り替わったとは思えない④⑤においては、現在形を使用しています。

 同じ現在の出来事に対して、あるときは過去形を使い、別のあるときには現在形を使う。

 どうしてこのような書き分けが生まれるのでしょうか。

 ただ何となく、という風に言う作家も多くいることでしょう。

 「しっくりこない」「これしかない」感触は様々でしょうが、逆に言えば、過去形と現在形は、意識して書き分けをしない人間にも感じ取れるほどはっきりと違った表現効果を持っているということです。

 では、その表現効果とは一体何なのでしょうか。


 ■距離感

 一言で言うならば、過去形と現在形の違いは距離感から生まれます。

 すなわち、「現在形は近い」そして「過去形は遠い」のです。

 確かに、目の前に存在する事物に対しての思考に比べ、過去の対象物に対する思考は遠いものに感じられます。

 その時間的な距離感からの類似関係によって、時制の変化による豊かな表現が生まれます。


☆遠景と近景

 (1)富士山、である。

 (2)富士山、だった。

 映像として、ズームアップされて感じるのはどちらでしょうか。おそらく、大抵の人が(1)だと応えるでしょう。今回は、付帯状況を全て取っ払った上で比較をしているため、想像した状況もまた(1)と(2)でことなっているのではないでしょうか。


 たとえば(1)では、富士山の麓や、登っている最中の映像と合わせても不自然ではないのに、(2)では、より遠くから富士山を見ている印象を受けます。

このように、現在形と過去形を使い分けることでズームインとズームアウトを表現することができます。


☆音量と距離

 (1)ラッコがいる。シロクマがいる。ペンギンがいる。水族館は賑やかである。

 (2)ラッコがいた。シロクマがいた。ペンギンがいた。水族館は賑やかだった。


 (2)に比べて、(1)の方が、より賑やかに聞こえるのではないでしょうか。

 これは、物理的な距離がそのまま音量を反映しているという現実世界のルールに身体が反応しているのだと考えられます。

 ともあれ、現在形では音量が大きくなり、臨場感が増します。

 また、過去形を用いると音量は小さくなり、淡々とした表現となるのだと考えられます。


☆仮定法で過去形を使う理由

 直接日本語には関係ありませんが、英語の文法に仮定法というものがあります。これは、実現の可能性が低い事柄を表す表現で、目印はIfで始まる副詞節と主節のwould、そして、時制を一つ前に遡った動詞です。

 現在形は過去形になり、過去形は過去完了形になります。

 ここで、実現可能性の低い事柄にのみ過去形を用いるというのは、やはり、過去形が『遠い』表現だからなのでしょう。

 このように、過去形と現在形による距離感の微妙な差異が理解できると、それに付随して理解できることが多くあります。


 では、次回からは、いよいよ秋山先生の作品を具体的に取り上げて、その技法を見ていきたいと思います。


参考文献

石黒圭(2005)よくわかる文章表現の技術〈3〉文法編

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