第4話 片付け
翌日。学校において恋の風邪が大流行を起こした。
原因はもちろん、私と猫である。教室にいた200人に風邪が移り、そのまま人から人へ流行ったという。その翌日に同僚が笑みを浮かべながら話を聞かせてくれた。私は同僚に風邪はひかなかったのか、と聞いたら「私はどうやら平均よりも他人に興味がないらしい。異性であっても同姓であっても」と答えた。確かに同僚は独身だし、パートナーが透ける言動も見たことはなかった。よく笑うくせに変なやつだった。
奇しくも季節は人肌が恋しくなるような寒い中で、恋風邪の流行に乗った。
私が恋の風邪がおさまるまでに三日間がかかった。しかし、恋の風邪は凄まじい感染力があるらしく、土日明けの大学でもまだ恋のブームが残っていた。むしろ強まっていった。あまりの変貌ぶりに言葉をなくした。特に生協と喫茶店は嵐と呼んでもよかった。風邪が治まっていた私には、あまりにも見ていられなかった。
お互いが恋風邪にかかり、人目を気にせずむつみあうカップル。美人に群がるモブ男たち。イケメンに群がる、これまたモブ男たち。私で争わないで、と大声で叫ぶ女性と殴り合う男性たち。用務員さんが止めているが、喧嘩は収まる気配がない。
さすがに、構内の安全にかかわるので「君らが学校で暴れると君らを処分しなくてはならなくなる。大学になりたくないなら、痴話げんかはよその店でやること」と注意をした。
彼らは場所を離れた。私は広場の端の椅子に座り、
「これじゃあ、授業にならないな」と私がつぶやいた。その瞬間に「いいことをした気分か?」と隣で声がした。猫だった。
「そんなつもりは無いさ。だって、いや、おそらくは私と君がここまでことを大きくした原因だからね。これくらいは治安のためだ」
「いや、そこじゃない。ここでやめさせたって、彼らはその店ではあれるって話だ。君が言ったとおりに」
「ふうん」
「どうした?」
「学生もそういうところでは教員の指示に従うんだな。おかしな話だ」普段の授業はまじめにきかないからな。
黒板をみると「本日休講」の文字とともに、熱に浮かされたポエムが書かれていた。
「ここの教室の先生も風邪にかかったらしい」猫があくびをしながら言った。
「え、なんの授業なんだ」と聞く私。
「一般教養の数学だったかな」
「あー」と声が漏れた後、私は声を潜めていった。「あの人は既婚者では?」
その次の日はさらに激しかった。
構内のいたるところでむつみあう男女が増えた。殴り合いのけんかも増えた。大学の事務の職員がいつもの三分の一ぐらいしか居なかった。チョコレートが構内のいたるところで爆発したかのように散らばっていた。
「これはこれは」と私はしきりに関心していた。「学問が人間のリビドーに負ける瞬間だ」用務室からモップをかっぱらってきた。地道に掃除中である。
隣で同じくモップ掛けをしていた同僚はこちらを向き「近くのコンビニではスキンが売り切れたらしい」とつぶやいた。
「それはそれは」と私は相槌をうち、「スキン? 近頃の若者は積極的だな。ちなみにそれはどこから聞いたんだ?」「いや、生協が閉まっていてな。私が行ったよ。直接見た」「なるほどね」
積極的か……とつぶやき、同僚は沈黙した。こういう時、じっと考えている証拠である。私は黙ってモップ掛けをつづけた。モップの毛がチョコを大量に吸っていた。これはいったん洗う必要がありそうだ。
「どうだろうな」同僚は顎に手を当てて考えた。「積極的になっているようで、実は積極的にさせられているだけかもしれない」
「お。なんか出たか」
「君はさっき、リビドーと言ったよね?」
「まぁ」
「リビドーっていうのは、もともとフロイトが使い始めた概念だ。日本語だと情動、だったかな。フロイトはいまの心理学の最初に位置づけられるような人で、夢分析が有名なんだが……」
「ま、待ってくれ」私はストップをかけた。「私もフロイトはわかるが、それ以上は知らない。あまり長く語られると飽きるんだ。私はリビドーをあくまで性的な衝動って意味でしか使ってない」
同僚はなんでもない顔で言った「別にその意味でいい」「いいんだ」
「大事なのは、彼らは積極的に動いているわけじゃないんじゃないかってことだ。リビドーに突き動かされているかもしれない。その時、若者は自分で選択したことになるだろうか。理性よりも感情が強く出てきた。それは彼らの考えか?」
同僚は床を見つめていた。しかし、その目は遠くを見つめているようだった。
「感情も自分自身の所有じゃないか?」と私は問うた。
「確かにそうだ」と言いながら、反論があった。「でも所有しているものが、本体の手に負えないこともあるだろう。きっと理性は手に負える代物なんだ」
同僚はつづけた。
「彼らはもはや、自分で選択する余地がないほどに性に突き動かされていたんじゃないか? そしてそれは、自分が選んだように見えるかもしれないが、風邪を引いただけじゃないか。彼らはすべてが終わった後、きちんと自分で後片付けはできるのか?」
「廊下と教室のあと片づけは、私たちがやっているが」
「そもそもが君がばらまいたものだ、君が片付ける問題かもしれない」
万病のもと 水乃 素直 @shinkulock
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