第3話 完治


 午後二時。酒が抜ける様子がない。もう足取りすらおぼつかない。同僚の肩を借りながら、私は教室まで向かった。教室に向かうまでにすでに噂が生徒の間で回ってしまったらしい。『振られて酒で暴れたらしい』『それを先生が止めに入ったらしい』『先生は猫と喋れるらしい』だとか聞こえてきた。



「なんだなんだ、私の授業はいつからこんな人気講座になってしまったんだ」

「物見遊山が多いねぇ」

「見たことのないやつだっている。オラァ! 見せもんじゃねぇぞ! 散ったちった!」

 私の剣幕に気圧され、学生たちが騒ぎ出した。同僚がにこやかに言った。

「今日は君の晴れ舞台だねぇ」

「適当なこと言ってんじゃねぇ。おめーだって、騒ぎにならないとか言ってたじゃん、全然違ったじゃん。めちゃくちゃ騒ぎになってるじゃねぇか」



「せ、先生、どうしたんですか」

 栗色の髪の女学生が声をかけてきた。

「お、おう君か」

 私は見覚えがあった。よく前の席に座っているし、授業後に質問しにくるまじめな生徒だからだ。

「どうしたんですか、こんなに酔っぱらって」

「いや、まぁ」

 私は目をそらした。同僚に話しかけた。

「やはり生徒の前に醜態をさらすのはよくないと思う。今日は休講にしないか?」

 同僚はすかさず答えた。

「それは私が決めることではないが、君が授業をしない方がうれしい学生のほうが多いのかもしれないね」

 席に座っている学生たちを見ると、彼らはある種の期待を持った目で見ていた。

「確かに」

 私は同僚により深くもたれかかり答えた。

「ええ!」

 と声を上げたのは目の前の女学生だった。焦って彼女は続けた。

「いや、私は、先生の授業を聞きたいです。先生もここまで来たんだし……」

 席に座って聞いていた、学生たちがまたざわつきだした。休みたい、余計なことは言ってくれるな……そんな怨念を感じる。しかし、優秀なのは彼女のほうで、評価されるべきも彼女のほうであった。

 酔いがまた強くなった。目が熱くなっているを強く感じた。

「君の気持ちはうれしいがね、私も迷惑かけられないよ」

「え、でも」

 女学生の台詞を遮る形で同僚がつぶやいた。

「病気の原因は、目の前の姫君かい?」

「んああ!?」「病気?」

 私はすぐに否定した。

「そんなことない」「先生が病気ってどういうことですか!?」「いや、ちょっとした風邪みたいなものだ」「私は絶対そんなことない」「え、大丈夫なんですか」「お前は何を言ってるんだ、学生を困惑させることは言うな」「愛はすべてをいやしてくれるさ」「ほざけ」「え、先生、何の話をしてるんですか? 私がなにか関係あるんですか」


 学生たちがまたざわつきだす。病気? 猫と喋れること? 休み? 愛?

 私は掌で机をたたいた。生徒たちの注目が一気に集まった。音が思ったよりも大きくて、自分でも掌を見つめた。私は猫と喋れるなんてあるか!!

 そして、しっかり二本足で立ち、口から泡を飛ばしながら学生に向かっていった。解散!!

 気圧されて、少しずつ去っていく学生たち。

 笑う同僚と驚いている彼女に、まあまあ、と慰めたと思ったら、授業開始のチャイムが鳴った。


「くそ、酒が飲みたくなった」



      ******



 研究室で机に座っていると、ドアがノックされる音がした。

「どうぞー」

「あ、あの失礼します」

 誰かの見当はついていた。先ほどの学生だった。

「ああ、君か、まぁ、座って」

 彼女はパイプ椅子を見た。「椅子……」とつぶやいた。椅子を見ると、パイプ椅子には本が積まれていた。「ああ、それ隣の椅子にでも置いていいよ」と私は言った。

「そいで、どうしましたかね」

「先生が病気って言ってたのですが」

 彼女の目の光は強かった。

「ああ、たいしたことないよ、ちょっと体調が悪くてね」

「そ、そうですか」

 彼女は心配そうにこちらを見つめた。

「不安になりました」

「そうかい。心配してくれてありがとうね」

 そう言葉にすると、胃の奥が熱くなり、喉のあたりの違和感が強くなった。酔いがさめてきた。

「どうなさったんですか」

 私は口を開いた。がしかし、何も言わなかった。静かに首を横に振った。

「きみはいつも質問に来てくれるし、ちゃんと話も聞いて、真剣にノートをとっている」

「は、はい」

 私は彼女を褒め、いくつか質問をした。そういえば、何年生か、所属しているサークルはあるのか、ほかにどんな授業を受けているのか、あなたの関心ごとは何か、将来はどのような進路を考えているのか……。

 彼女は誠実に答えてくれた。

 恋人はいるのだろうか……? 何度も喉元まで出かかった質問だった。



 教員が学生の恋愛事情を詮索するものではない。



 三回ドアをたたく音がした。私が答える前にドアが開いた。

 入ってきたのは先ほどの同僚だった。思わず声を上げた。

「おま……さっ……きほどの無礼は失礼した。でも許さないからな……」

 彼は愉快に笑った。

「若いうちはすべてが経験だ」

 別の声がした。

「みゅう。人間は立場に苦しむ。それは猫も同じさ」

 同僚の足元からするりと、ぶち猫が姿を現した。私は息をのんだ。

「お、おまえまでここに……!?」

「言っているじゃないか、私は君のことがすきなんだよ、とても」

「今日も授業にでてたのか」

「それはそれは。猫の身分として今までで一番学びが多い授業だった」

「というか、お前、ほかでもしゃべっていいのか?」

 猫は答えなかった。猫はのそのそと歩き、女学生の膝の上に飛び乗った。

「やはり、美人はよい」

「やかましい」

 女学生はややこわばった表情で、視線を私と同僚で往復させていた。首を何度か振り、改めて猫を見つめていた。しかし、猫を膝に乗せたとたん、誰かに教わったかのように撫でだした。猫はのびやかにしていた。

「でもね、君に撫でられるのは素敵な時間だ」

 猫は私に向かっていった。猫は女学生から降りた。

「ね、ねこさんとお呼びすればいいのでしょうか? な、な何か気に食わないところがありましたか?」

「ううん、いいや。お嬢さんの撫で方は悪くない」

 猫は彼女を見上げた。私はしゃがみこんだ。

「乗ってすぐに降りるな、わがままだぞ」

「いやぁ、きみのほうが良いんだ」

 猫と目線があう。猫はくしゃみをした。

「みゅう」

「くしゃみとは珍しいな」

 私は座った姿勢のまま机の上においてあるティッシュに手を伸ばし、猫の口と鼻を拭いた。

「や、やめてほしい」

「私は猫のことがよくわからんからな」

「い、痛い」

 ドアにもたれかかっていた同僚が笑った。

「ごしごししちゃあ、痛いだろ、そうやってると変なとこに炎症できるぞ」

「炎症ねぇ……」

「猫は病気が嫌いなんだ」

「病気ねぇ……」

 はたと我に返り手を止めた。

「病気?」


 私はとっさにうしろに振り返った。ビニール袋。その中には風邪薬と酒。



「あ~~~~~!!」



 突然私が声を上げ、周りは目を見開いた。

「どうしました?」

 とっさに聞く女学生。顔をそらす猫。うなずく同僚。

「風邪って、お前か~~~!! お前の恋の風邪が!! 私に!!」

「い、いや、わからんぞ」

「いや、そうだね! あんたのせいよ!」

 私は猫の頬を両手でがっちりホールドした。

「私を風邪だとかなんとか言いやがって。あんたが風邪移したんじゃないの!」

「風邪がねこさんから移った……?」

「変な気持ちにさせやがって、こんちくしょう、変な迷走と勘違いするところだった」

「まぁまぁ」と制止したのは同僚だった。

 私は同僚を睨みつけた。

「あなた、どこまで、いやどこから知ってたの?」

「ん? 僕かい? 僕はそうだな、よく知っていたともいえるけど、よく知らなかったともいえる。君が思っているよりも多くを推測しているが、君が思うほど、何もつかめていない」

「めんどくさい答え方してんじゃない」



      ******



 後日。受診室にて。

 私は猫を連れて行った。医者は「いやあ、ここは動物病院じゃないからなぁ」と愚痴をこぼした。ごもっともである。

「なんともならないじゃないですか」

「まぁ、でも馬鹿に付ける薬はないので」

 彼は淡々と言った。私と猫はうなだれたのだった。

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