満月とスポーツクラブ

上高田志郎

第1話

 段差の低い小さな階段は5段ぐらいしかなかった。その向こうに見えるプールは真夏の青空の下のように輝いていたけれど、まず目を奪われたのはミステリーサークルのように並べられたソファだった。三重にソファで円を作っていて、そのサークルがプールの周りを囲っていた。ソファは上等な皮を使っているのが素人でも分かった。天井には丸い穴がくぼんでいて、そこから夕暮れのような淡い光がソファのスペースを照らしていた。


 オープンして三か月ぐらいたった新しいスポーツジムはどこもかしこも美しい姿そのまま、静かに微笑みを浮かべているようでもある。私は金を払って運動する年齢になった自分を恥ずかしく思う気持ちを捨てきれなかったが、この施設の中にいるとそんなことを考えていた自分がバカらしくなってきた。むしろ、こんなジムに通えるぐらいになるまでよく働いたと思った。ジムを選んだ条件は帰り道にあることとプールがあること。大の銭湯好きだったけれど、銭湯はすでに希少であり、その変わりをジムに求めたというのもある。帰り道にあるのは絶対条件で、仕事帰りわざわざジムに通うのに遠回りしたり違う駅で降りるなど正気の沙汰ではない。駅の近くにできたスポーツジムは割高も割高な気はしたが、金の使い道に困っていたというのもある。富裕層ではないが、休日なし、結婚もしていない、人づきあいもなければ自然と金はたまるものだ。金が欲しい時は時間が余っていて、金が余っているときは時間が欲しい、私の人生で金も時間もあるという状況はこの先もなさそうだ。しかし、ほとんどの人がそうではないだろうか?


 ソファは満月のような柔らかさを感じる白で水滴一つついていない。ショールームで展示しているのをそのまま持ってきたかのようにどこも汚れていなかった。フロアの絨毯は足の裏から清潔であることをこれでもかと伝えてきた。私はサークルの一番外に腰かけてあたりを見た。フロアにいるのは私一人だった。このジムはもともとボーリング場を改装したものなのだが、なんとなくなごりはあった。ボーリングをしにきたことはなかったけれど、プールがある場所はかつてレーンだったのだろう。


 どこかで滝のように激しく水が流れている。轟音が密閉された空間と室温の中で独特の響きかたをしていた。独り身にはこの音がたよりなところもあった。


 私は泳げなかったが、どうしてもプールがあるジムがよかった。小さい頃から泳ぎは苦手で水泳の授業は自分でプールカードに×印を書いて見学していた。そんなことをしていたのは私だけだったのか、学年が上がる頃には教師も許さなくなり、私は立たされて皆の前で怒られた。皆の視線には蔑みと憐れみと理解不能が読み取れた。学年は3クラスあったが、25メートル泳げないのが一番多いクラスだと教師は憤慨していた。そんなのはまったく私に関係ないことだった。連中の評価のために生きているのではないのだから。あのプールの周りのアスファルトで肌をこすったことを思い出すだけでタマキンが縮み上がる。水に濡れている状況で滑りやすいのに、あらゆるものが堅くて尖っていた。   


 あの頃の子供たちはいまよりも野蛮で危険な環境にいながらも巧みに危険を避けることができた。それでも、毎年夏になると水の事故で海でもプールでも子供たちはどこかで亡くなっていた。そういうニュースがテレビで流れた時は、私の母親も海やプールを汚らわしいもののように顔をしかめて文句をいっていた。今の子供が軟弱ということではないのだろう。そう思いたい人は大勢いるらしいが、不運の足音は誰の耳にも聴こえるものではないのだ。


 せめて異性への興味が湧いていたらまだいい思い出になったかもしれないが、水泳の授業が地獄だった私には美しい少女の思い出などない。中年にさしかかったおばさん教師の水着がひどく嫌だったのを覚えている。教師の怒鳴り声と泳がなければいけないということさえなかったら、私はプールで楽しく遊んでいたと思う。よく空想していたのは満月の夜に一人で学校のプールをひとりじめすることだった。誰の怒鳴り声もしない夜のプールで。


 大人になってようやくその夢が近づいてきたのだ。水の中を自分のペースで歩くだけでもかなり楽しいだろう。今ではウォーキングという立派な言葉まである。ちょうど空は満月で、プールのフロアの曇りガラスの上に満月が見えたらいいなと思っていた。私はソファに腰かけてしばし夢心地だったが、あまりにも静謐なので利用していい曜日と時間なのか心配になってきた。しかしすぐにそんなことはどうでもよくなった。ゆっくりとプールに入り、水の抵抗を感じながら歩みを進めると、溶けたガラスの中にいるようだ。浮力を感じつつ、魂が浄化されていく。私の魂と私の体は無理なく離れ、その二つの存在を他者のようにして眺め入っていた。それからは獣のように水の中で暴れた。泳ぎにもチャレンジしてみたが、5メートルも泳げていなかっただろう。誰にも怒鳴られることなく一人水の中で戯れることがこんなにも楽しいとは思わなかった。私はこれからのスケジュールを頭の中で精一杯考えた。


 人影が現れ始めたのに気付いたころは満足もひと段落していた。ソファのスペースには黄昏時のような黒い影たちがゆっくり歩いていた。何かの合図でも待っていたかと思うほどわらわらと湧いてきた。男も女もたくさんいる。誰もプールに入ってこないのが気まずくて私はプールから上がった。常連の動きを確認したかったのもある。一人だけ濡れているのはきまりが悪くタオルで丁寧に体をふいた。私は大満足していたので、後は常連のみなさんがどのようにプール内を使うか見ておきたかった。今後のマナーの参考になるからだ。


 ソファはほぼ満席になっていて、男女しっかりペアになっていた。男も女もちょっとみたことがないぐらい美しい。私の人生で縁のない人種だ。今まで見てきたクラスや職場で一番かわいい人やかっこいい人でもこの中には入れないだろう。カップルは体を重ね合わせていて、早いところはキスをし始め、早いところでは水着の下に手をすべらせていた。振り向くと他のソファでも他のサークルでもお互いの体をむさぼっている。私はあっけにとられて、ここはそういう所なんだなと冷静なふりをした。そのうち男のパンツがずり落ちて女が喰わえ始めたころにはこれはマズいと思った。この上等な連中はこういう集まりが好きで、私のような残念な人間に見せつけるのが好きなのかもしれない、そんなことを考えるのは混乱している証拠である。だったら水着なんて着てくるなよと思ったがそれどころではなかった。男の棒が女の穴に入って腰が動き出している。隣のサークルもその隣のサークルも、その先の見えないサークルでもきっと、工事現場のようにもくもくと腰が動いていた。


 まさにスポーツジムならではのエクササイズのように、真剣におごそかに乱交は始まっていた。見渡す限り全員同じ体位なのだ。自分から混ぜてくださいと言える人間だったら、この光景に立ち会えてラッキーと感じる年齢だったら――どうなっていただろう? 居酒屋で笑って話を聞いてくれた友達も思い出の中だ。


 私は気味の悪さときなくささに早く立ち去ろうと思った。正直立ち去り難い気持ちもかなりあった。それは性的興奮の衝動よりも、異世界のような正体を知りたかったからだ。いったいなんなのか。だが、彼らが私に秘密を打ち明けることが絶対にないということも分かっていた。激しく腰を打ち付ける音もしなければ女の喘ぎ声も漏れてこない。耳に届いてくるのは下等な生物が食事をしているような音だった。


 私は二度とジムには行かなかった。わずかではあったが、水と戯れた幸福な時間は嘘ではなかったと思う。


 ジムは半年たたずにつぶれた。私は自分の人生が汚されたような気がしたが、そういうことは初めてでもなかった。またかと思った。きっと自分では気づかないがどこかに印がついていて、こいつならだいじょうぶだとクソをぶつけられるのだ。この先の人生もまた。

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満月とスポーツクラブ 上高田志郎 @araiyakusi1417

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