泰平の階~43~

 時代が再び騒乱へと動き出そうとしていた頃、千山は比較的平穏であった。劉六によって尊夏燐軍を撃退してから、千山を攻めてくる軍勢はなかった。僑紹などは訝しく思ったようだが、劉六は打っておいた布石が活きたことに安堵した。


 「それでも夷西藩が滅亡した以上、あの土地は条公のものとなるだろう。そうなればいつまた攻めてくるか分からんぞ」


 快癒した僑紹に対して劉六は警告した。事実上、今の千山の頭領となっているのは僑紹であった。長老達が推戴したのである。その僑紹はよく劉六の診療所を訪ねて意見を求めていた。


 「その時はまたお前の軍略に頼るさ」


 「私は医者だぞ」


 「その医者殿が二度も正規軍を退けたのだ。自信を持て」


 「偶然だ。しかも一度は撤退しただけで戦っていない」


 すべては偶然だ、と劉六は念を押すように言った。劉六がすると、先の尊夏燐軍との戦いは本当に偶然の勝利だと思っている。知恵を尽くしたが、かなり運によって左右された勝利であることには間違いなかった。偶然が重なると必然としてしまうのが人である。そう戒めて自重するからこそ劉六は医者であることに拘ったのである。


 『下手におだてられ、軍司令官でにもされたら、それこそ次に待っているのは敗北だ』


 所詮は軍事については素人に過ぎない。劉六は密かに用意していた冊子を僑紹に差し出した。


 「何だこれは?」


 「軍の教練本だ。栄倉にいる時に写したもので、なかなかためになる。それを使って軍を強化しておくといい」


 適庵の医学校にいた頃、暇があれば書物を読み漁った。その中には兵書もあり、有益になりそうなものはすべて書き写しておいたのだった。


 「ありがたく使わせてもらう。兵士達もお前が書く兵書は分かりやすくていいと言っているぞ」


 すでに劉六は三冊ほどの兵書を執筆していた。戦略戦術論から軍の編成、日々の食事などを記したものなど幅広かった。それだではなく、それらの兵書を理解させるためにも将兵に文字を教えることも行っていた。


 『潘了ぐらいの将校が文字を知らないようでは有機的な軍事行動ができない。末端の一兵卒まで文字を知り、命令を理解できればより強い軍が作れる』


 というのが劉六の理念であり、そのことを僑紹を通じて実施させていた。


 「そういえば城壁の修繕と改良はもうすぐ終わる。お前さんのいうとおりにしておいたぞ」


 尊夏燐を撃退した後、劉六は千山の城壁修理を提案していた。それだけではなく自ら図面を引いてみせた。千山の図書館にあった古今の要塞の絵図面を参考にし、いざ大軍に囲まれても千山を守り切れるような工夫もほどこしていた。


 「そうか」


 「大工共が驚いていたぞ。これが本当に劉先生が描いたのかと。お前は本当に多彩だな」


 「ちょっとかじっただけの知識で大層に驚かれても困る。本当に有効かどうかは実際に戦闘になってみないと分からん」


 「戦なんてそんなものだろう。実は……近々、少洪覇様が立たれる」


 僑紹は声を潜めた。劉六は不快そうに眉をあげた。


 「だから何だ?」


 「密かに少洪覇殿の使者がやってきて、我らに協力を申し出ている」


 「協力ね……。長老達は知っているのか?」


 「勿論だ。しかし意見は分かれている」


 難しい判断だ、と劉六は思った。今でこそ条国軍は千山に攻めてこないが、将来的にはその可能性は否定できない。単独で千山を守り切るよりも、少洪覇と連携した方が得策であろう。しかし、少洪覇と連携することで、千山を攻めるつもりがなかった条国軍を呼び込んでしまう恐れもあった。


 「長老達はお前の意見を聞きたがっている。というよりも、お前にも千山の政治に参与して欲しいと思っている」


 「私は……」


 「医者だぞ、というのはもう聞き飽きた。劉六、お前はもう単なる医者じゃないぞ。少なくともこの千山では」


 「お前達が仕向けているのだろうが……」


 そう言いながらも、医術以外の能力で千山の民衆を救えるのなら、存分に活かすべきではないかという思いも湧いてきていた。それはかつて適庵に語った、学問によって見えてくる真理のようなもので人を救うということではないか、とさえ考えていた。


 「長老達だけではない。俺としてもお前が協力してくれれば、非常に助かる」


 「医者としての仕事はどうなる?」


 「それはやってもらってもいい。僑秋もいるから大丈夫だろう」


 確かに僑秋は独立をしてもやっているだけの知識と技術は習得していた。劉六は自分とは別の診療所を構えるべきではないと提案していたが、僑秋はまだ勉強が足りないと言って、まだ劉六の下で助手をしていた。


 「分かった。あくまでも助言をする程度なら協力しよう」


 観念したように劉六が言うと、僑紹は嬉しそうに肩を叩いてきた。


 「それでこそ劉六よ。これからも頼むぞ」


 この時は、たまに口を挟む程度でいいだろうと思っていた。しかし、それが甘い考えであったことは、その日の晩に思い知ることとなった。

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