泰平の階~44~

 それからしばらく時が流れた。診療を終えた劉六が診療録と薬剤の整理をしていると、江文至が尋ねてきた。江文至は現在、僑紹の下で一部隊の長を務めていた。


 「将軍と長老達が政庁でお待ちです」


 「分かった……」


 助言する程度と言ったばかりにこれからこき使われるのだろうなと思うと、劉六はややうんざしてきた。


 「先生、ここの片づけは私がしておきますので、どうぞ行ってください」


 「すまないね、頼むよ」


 僑秋の言葉に甘えて診療所を出た劉六は、江文至に連れられて千山の政庁に向かった。劉六が政庁に入るのは初めてであった。案内されるままに政庁の会議室に通されると、すでに僑紹と長老達が待ち構えていた。


 「先生、夜分に申し訳ない。ぜひとも先生の意見を聞きたくなりまして」


 長老の一人が丁重に礼を述べた。劉六は黙って空いている席に座った。ふと上座の方を見てみると、品のよさそうな青年が座っていた。


 「そちらは?」


 その青年が長老達に尋ねた。言葉遣いにも品の良さがあったが、やや尊大な感じもあった。


 「劉六殿と申します。千山で医者を営んでおりますが、尊軍撃退の指揮も執ったことがあり、色々なことで我らも意見を求めている方です」


 僑紹が紹介すると、そうかとだけ言って自分の名前を名乗ることもなかった。


 「あの方は斎興様の重臣、董阮様だ」


 僑紹が耳打ちして教えてくれた。


 「斎公?斎公は確か哭島に流されているのでは?」


 「違う。その斎公の嫡子で斎興様という方がいるのだ」


 「公子か……」


 劉六は斎興についてあまり知識がなかった。その斎興の重臣が何をしに来たのかと思っていると、唐突に語り始めた。その内容は、もともと条国と呼ばれていた国は斎国であり、不当に奪われたのだと涙しながら語り、今の斎公である斎治がいかに英邁で、公子である斎興もいかに優秀であるかを熱弁した。


 『何だ、こいつは……』


 劉六は黙って聞きながらも、その中身のない空虚な言葉に冷ややかな評価をした。


 『要するに夷西藩に寄って軍を挙げるつもりなのだろう。その協力を求めに来たのか』


 そうだとすれば、すぐにそう言えばいいのである。無用な美辞麗句を並べていては、真意を伝えることができないだろうというのが劉六の感想であった。


 「間もなく公子が夷西藩に到着し、少洪覇と共に兵を挙げるだろう。その暁には千山も公子に協同して義挙に参加されたい」


 熱弁する董阮に対して長老達の反応は様々だった。熱心に聞いている者もあれば、冷ややかな視線を送っている者もいた。僑紹は前者であった。


 「いかがであろう」


 董阮は決断を迫るように言った。彼からすると夷西藩に向かっている斎興によい手土産を持ち帰る為にも千山から協力の言質を是が非でも取っておきたいのだろう。長老達は視線を僑紹に向けた。今の千山の事実上の指導者は僑紹なのである。


 「……劉六はどう思う?」


 自分で決断できない僑紹は劉六に意見を求めた。その劉六は、やや違うことを考えていた。


 「とても保てない」


 劉六は短く言った。


 「劉六、どういうことだ?」


 「公子が夷西藩に寄っては、長く勢力を保てないでしょう。少洪覇殿はすでに坂淵を奪還しておりますから、条国軍も面子というものがあるので全力で潰そうとしてくるでしょう。そこに公子が加わればどうなるか?夷西藩への猛攻は一段と強くなるでしょう」


 劉六が言い切ると、董阮の顔が強張った。だが、すぐに柔軟な表情に戻した。


 「劉六とやら、ならばどうすればいいのだ」


 「公子を千山にお迎えになるべきです」


 そう言うと劉六は懐から紙を取り出し、携帯していた筆と墨壺を机の上に置いた。


 「よろしいですか。夷西藩の坂淵に公子が寄れば、条国軍からすると敵の拠点はひとつです。しかし、公子が千山に寄れば拠点は二つになります。必然的に条国軍は軍勢を二つに分けねばなりません」


 劉六はまるで教師が生徒に教授するように語り始めた。白い紙には二つの丸を描いてみせた。劉六には不思議な魅力があり、このように説明を始めると、終わるまで意見を差し挟む者はいなかった。


 「我らからしても、こうすることで点から線への戦術が展開できます。点ではひたすら守ることしかできませんが、線となればただ守るだけではなく、連携して様々な戦い方ができます。これにさらにもう一つの点を加われば申し分がない。この点は別に拠点である必要はなく、遊軍でもいいでしょう。そうなれば今度は面としての戦術が展開できます」


 劉六はもう一つの丸を描いて、三つの丸を線で結んだ。紙の上には三角形が完成した。


 「この三角は我らの領域です。敵からすると死地です。ここの敵が入れば、攻めるのは容易ではなくなり、守る我らかすると容易くなります」


 ここまで語り、劉六ははっとした。董阮の発言の稚拙さに反発するようにして、ついつい持論を語ってしまった。董阮は怒ったか、と思ったが、やや顔を紅潮させているだけで、反論することはなかった。


 「劉六とやら、良き言説を聞いた。一度公子にそなたの考えを聞かせてみたいのだが、公子と会っていただけるか?」


 董阮は他者の意見を聞き入れるだけの度量はあるようであった。言ってしまった以上、劉六としては断ることができなかった。

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