泰平の階~32~

 翌々日。未だ劉六の診療所で入院している僑紹のもとに数人の兵士が駆けこんできた。


 「毛僭様が見当たらないだと!」


 病室の外で薬の調合をしていた劉六は、聞くつもりはなかったが、聞こえてきたので手を止めた。


 「はい。ご家族も寵姫の方々もおられません。住処はもぬけの殻です」


 報告に来た兵士が悲痛な声を上げた。兵士は口にこそしないが、毛僭が逃げたのは明らかであった。


 劉六は止めていた手を動かした。近くにあった薬缶から湯を薬鉢に注いだ。鼻を突く臭いが立ち上がってきた。


 『私は医者だ。余計なことを考えるな』


 この臭いが劉六を医者にとしての自分に引き戻した。劉六は所詮は医者である。医者としての仕事以外のことを考える必要はないのだ。そう自分に言い聞かせて、劉六は薬湯を作り上げた。


 「僑紹、薬湯だ」


 劉六はあえて口調を明るくして病室に入った。兵士達が劉六に黙礼した。


 「劉六……毛僭様が逃げられたようだ」


 僑紹の声は沈んでいた。


 「そのようだな」


 劉六は薬湯の入った鉢を渡した。僑紹は顔をしかめながら薬湯を啜った。


 「私が愚かだ……。徒に乱を起こして、主君に逃げられる。これほどの愚か者が今までこの世にいただろうか」


 僑紹が自虐的な笑みを浮かべた。傍から見れば僑紹の行いは滑稽であろう。しかし、劉六が気にするのは僑紹のことではない。


 「お前のことはいい。そんなことよりも今ここは指導者が不在だ。どうするんだ?」


 「そんなこと言われても……」


 「少なくとも毛僭がいなくなったことの箝口令は敷くべきじゃないのか?住民も倣って逃げ出すぞ」


 僑紹の顔色がさっと変わった。悲しみが消え、一瞬にして焦りの色となった。


 「劉六の言ったとおりだ。すぐに箝口令を」


 僑紹は声を震えさせて命令した。しかし、時すでに遅しで、毛僭が逃げ出したことを知った千山の住民達も、多くが戦火に巻き込まれるのを恐れて逃げ出していた。住民だけではない。兵士達も前途に希望をなくし、千山を脱走していた。そのような報せも続々と僑紹の下に寄せられていた。


 「そうか……」


 僑紹はそう言うだけで明確な指示を出さなかった。出せなかったという方が正しいだろう。事態は完全に僑紹の才覚で処理でき範疇を完全に超えていた。


 『傷が癒える前に精神が破綻するかもしれないな……』


 劉六は冷徹に観測していた。一方で景気のいい時だけ調子のいいことを言って騒ぎ、危機的状況になると何もできない連中が多いことを意外に思った。


 『医者とは違うな』


 医者は常に危機的状況から始まる。だから劉六は常に冷静でいる様に心掛けており、決して希望的観測や大言壮語を言わないように努めていた。


 「僑紹。まだ傷が癒えているわけではないが、そろそろ方針を決めた方がいい。もう決められるのはお前しかいないんだから」


 僑紹がうつろな瞳で頷いた。これでは指示を出すこともできないだろうと思い、劉六は僑紹の病室を後にした。


 さらに追い打ちをかける様な情報がもたらされた。尊毅軍の別動隊がようやく動き始め、千山に向かっているという。


 「如何致しましょう。僑紹様」


 先ほどから慌ただしく兵士達が劉六の診療所を出入りしている。兵士達は僑紹に報告をし、指示を求めた。しかし、僑紹はまともに答えることができず、挙句には、


 「う、うぅぅぅん」


 と、うめき声をあげて倒れてしまった。劉六は慌てふためく兵士に呼ばれて僑紹を診察した。


 「発作だな。君らがあまりにも問い詰めるから……」


 「ですが……」


 兵士達からすれば、僑紹を攻めるように問い詰めるのも無理なかった。今、千山には頼るべき指導者が誰もいないのだ。


 「先生。また先生が指揮を執ってくれませんか?」


 兵士の一人が突然言った。よく見れば、攻撃拠点からの撤退の時に、劉六に指揮を求めた兵士であった。


 「おいおい、またかよ。先はたまたまうまくいっただけで、私は医者だぞ」


 「それでも先生の指揮は見事でした」


 「あれは戦闘指揮なんかじゃない。ただの詐欺だ」


 「詐欺であっても、千山が守られるのならいいではないですか?」


 この兵士は実に口が達者であった。劉六は反論することができなかった。


 『主君や武人が逃げて、医者が後始末するなんて聞いたこともない』


 しかし、やらざるを得ない状況にあるのは間違いない。僑紹がこの状態ではとても戦闘指揮はできないし、劉六自身、千山を守りたいとは思っている。劉六は観念した。


 「……今度きりだからな」


 この心境の変化が、後世の歴史家たちが劉六という人物の分かりにくさだと口を揃えた。自己が医者であることに拘り、そう主張し続けていた劉六であるが、他者から請われると意外にあっさりと拘ることを捨て、難事を引き受けてしまうところがあった。


 劉六という男は、自分のことを一個の機能として考えている節があった。あるいは道具と言い換えてもいいかもしれない。要するに他者が何事かの目的を達するために働くのが劉六であり、そこに自己の意思などなかった。


 「その代わり私は軍事には本当に素人だ。君にも協力してもらうぞ」


 「勿論です」


 「名前を何という?」


 「潘了と申します」


 潘了と名乗った若者は、まるで主君に仕えるように劉六に拝跪した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る