泰平の階~31~

 僑紹の千山軍を撃破したのは尊夏燐率いる軍であった。武勇においては秀でた者がある僑紹も、戦については素人同然であり、斥候を出すこともなかったので、尊夏燐軍の存在にまるで気が付いていなかった。そのために近隣勢力を制圧するどころか、自分達が制圧されるはめになってしまった。


 「実に歯ごたえがない。つまらん戦だ」


 無防備な千山軍の側面を襲い掛かった尊夏燐軍は、わずか一刻ほどで千山軍を壊走させた。尊夏燐の戦歴のなかで最も楽な戦いとなった。


 「追撃いたしましょうか?」


 副官が進言してきた。尊夏燐からすれば言われるまでもなかった。


 「当然だ。近くに拠点があるはずだ。そこを落として、一気に千山も占領する!」


 尊夏燐は迷わず追撃を命じた。兵士達は手柄を渡すまいと我先に駆け出して行ったが、しばらくすると慌てふためくようにして戻ってきた。


 「どうしたのだ?」


 「攻撃拠点を見つけたのですが、このようなものが……」


 やはり慌てた様子の副官が紙片を渡した。そこには雑な字で『疫病発生につき封鎖』と書かれていた。


 「これは……」


 流石に尊夏燐も背筋が凍り付いた。もしこれが事実だとすれば、この近辺では疫病が蔓延していて尊夏燐軍にも罹患した者がいるかもしれない。


 「敵の策略かもしれませんが……」


 おそらくそうであろうと尊夏燐も思った。もし本当に疫病であれば、敵は出陣などできるはずもない。しかし、疫病が事実であれば、尊夏燐軍からすれば千山攻略どころではなくなる。


 「一度、軍を下げろ。敵の拠点に入った者は体を洗って隔離する」


 尊夏燐は苦渋の決断をして、軍を一舎後退させた。このことで劉六は無事逃げ切ることができた。




 劉六が千山に到着した時には、散り散りになっていた兵士達の多くが逃げ帰っていた。劉六の診療所は予想通りいっぱいになっていて、僑秋が忙しそうに動き回っていた。


 「先生、よくご無事で」


 「君も頑張ったな。手伝うぞ」


 劉六は壁にかけていた白衣を羽織った。ようやく本業に戻れた劉六は余計なことを考えることなく、負傷兵の治療に専念した。その中に僑紹の姿があった。


 「いろいろとすまない……。情けないが、この様だ」


 寝台に寝かされている僑紹は、これだけの傷でよく帰ってこれたものだと思えるほど全身傷だらけであった。


 「それだけの傷で生きていて、喋られるんだから大したものだ。しっかり養生しろ」


 「そうしたいが……敵がここを攻めてくるぞ。誰かが指揮をしなければ……」


 「うるさい、寝ていろ」


 「しかし、敵は尊家だぞ……。下手すれば一瞬で捻り潰される……」


 「尊家……ね」


 覚えのある家の名前であった。記憶を辿っていくと、思い当たった。


 『前に禁軍に従軍した時だったか。将軍をしていた男が確か尊家の男だったな』


 ひどく若い男であった。自分とそう変わらない年齢のはずなのに将軍という身分だったのでなんとなく覚えていた。


 『あの男なら話が通じるかもしれない』


 と思ったが、考えを打ち消した。それはあまりにも甘い考え過ぎる。尊毅が条公の命令で進軍しているとなれば簡単に辞めはしないだろう。


 この時すでに敵軍に関する大まかな情報が千山に寄せられていた。僑紹軍を襲ったのは尊毅軍の別動隊であり、本体は夷西藩に乱入して少洪覇軍を一撃の下で撃破していた。


 『これからどうなるのか……』


 千山が危機に晒されているのは間違いない。しかし、その危機が早く来るのか、それとも遅れてくるのか、その差だけであった。


 『これから考えられる事態は三つ。一つは別動隊が本体に合流して夷西藩を一気に覆滅する。二つ目は別動隊に本体が合流して千山を襲う。三つめはそれぞれが進撃して夷西藩、千山の両方を潰す……』


 おそらくは三つ目であろうと劉六は思った。勢いのある敵がわざわざ時間をかけて別々に敵勢力を潰していくはずがない。近いうちに千山は敵に囲まれるだろう。


 「こうなったら素直に降伏するしかないな」


 「お前がそれでいいかもしれんが、俺達はそうもいかない……。刑場に引き出されるだけだ。易迅のように」


 僑秋が息を飲むのが分かった。確かに僑紹は一軍の大将であった以上、降伏すればただではすまないだろう。


 「じゃあ、どうすればいいんだよ」


 劉六は投げやりに言った。そもそも、そのようなことは劉六が考えることではないだろう。そう思っていると、診療所の扉が激しい音を立てて開かれた。


 「僑紹!僑紹はいるか!」


 小太りに男が声を荒げながら劉六達がいる病室に乱入してきた。


 「毛僭様……」


 僑紹が無理やり体を起こした。これが毛僭か、と劉六は初めて千山の君主を見た。


 「あれだけのことを言っておいて負けるとは何事か!もうすぐ敵がくるぞ!どうしてくれる!」


 「申し訳ありません……必ずや敵を撃退……」


 僑紹は苦しそうだった。傷ついていることもあるが、毛僭に攻められていることにも心苦しさを感じているのだろう。劉六は見ていられなかった。


 『こういう時、傷ついた家臣に優しい言葉をかけて労うのが君主ではないのか』


 劉六が書物で知った名君とはそういうものであった。毛僭はこの一事からして名君ではないのは明らかであった。


 「ここは病院だ。患者の見舞いに来たのでないのなら、出て行ってくれ」


 「何だ!貴様は!」


 毛僭は食って掛かってきた。劉六は動揺することなかった。僑紹などとは違い、君主に恐れを抱くことなどなかった。


 「医者だ。この患者は安静が必要だ。出て行ってくれ」


 「よせ、劉六」


 僑紹が制止しようとしたが、劉六は構わなかった。


 「貴様!私はお前達の主君だぞ!」


 「ここは病院だ。主君だろうが、医者の指示に従ってもらう。それが中原のどの国でも通用する法だ。貴方が主君であるというのなら、負傷した部下に代わって敵にどう対処するか考えたらどうだ?」


 「貴様!」


 毛僭は怒りのあまり顔を真っ赤にしたが、毅然とした劉六に反論できず、肩を怒らせて帰っていった。劉六が毛僭を見たのはこれが最初で最後であった。

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