泰平の階~33~

 進軍を再開した尊夏燐は怒り心頭であった。


 「騙された!」


 尊夏燐は周囲を憚らず喚き散らした。騙されたと言うのは、勿論劉六が撤退した拠点に『疫病発生につき封鎖』という張り紙をしたことである。尊夏燐は、この張り紙が敵の策略であろうと思いながらも用心して近づかず、進軍を停止させていた。それから数日過ぎても、軍内に病状を訴える者がおらず、疫病は嘘であったことが明るみとなった。


 「なんとしても千山を潰す!抵抗する奴は皆殺しだ!」


 怒りの収まらない尊夏燐は、過激な言葉で兵士達を鼓舞しながら軍を猛進させた。




 千山において、軍事的な指揮を一時的ながら執ることになった劉六は、広範囲に斥候を出して情報を収集した。


 『敵はほぼ無傷で約五百。こちらは搔き集めても二百名か……』


 逃げ出す住民や兵士が多い一方で、積極的に協力を申し出てくる者達も決して少なくなかった。特に千山の長老達のほとんどは、劉六の診察にかかった経験がある者達であり、劉六に信頼を寄せてくれていた。それでも戦える人数は二百名集めるのが限界であった。


 「先生、敵将は尊夏燐とかいう女、まぁ、勇ましくこちらに向かっているようです」


 劉六の片腕となった潘了は、実に飄々としていた。それでも危機的な状況を恐れた様子もなく、偵察などの任務を積極的、かつ確実に行っていた。


 『自分で文字も読めぬ無学と言っていたが、なかなか肝が太い』


 発言の所々に地頭の良さも感じる。文字を知るようになると、一軍を指揮する将校にもなれるのではないかと思うほどであった。


 「敵将は女性なのか……」


 尊毅のことはわずかに覚えていた劉六であったが、彼に妹がいて過去に遠目ながら見られていたことまでは知らなかった。


 「はぁ、なんとも勇ましい女のようです」


 「確かに勇ましい。つけ入る隙があるとするならそこだな」


 疫病の張り紙を見て全軍を停止させたことからしても、尊夏燐は決して凡庸な将ではない。しかし、慎重さはあまりないようである。


 『慎重な将ならば、自軍に病人が出なくても、すぐには進軍しないだろう。周囲で本当に疫病が発生していないか調べながら兵を進めるはずだ』


 この数日、劉六は千山にある図書館に通い、古今あらゆる戦について書かれた書物を片っ端から読んだ。そこから吸収した知識を自分の頭脳で再構築し、必要な部分を抽出するのが劉六のやり方であった。


 『こちらが籠城し、敵が遮二無二攻めてくることが前提であれば、勝機はある』


 劉六は自分が立てた計画を潘了に話し、準備を急がせた。




 劉六にとって幸いであったのは、潘了の他に有能な人物がすぐ傍にいたことであった。江文至である。彼は劉六が一時的に軍事の指揮を執ると分かると、多少武術の心得があり、騎馬も扱えると切り出してきたのだ。


 「どうして言わないんだ?そういうことを?」


 劉六は呆れてしまった。先にそう言ってくれていれば、自分ではなく江文至にその役目を委ねることもできたはずである。


 「いえ、先生がお尋ねにならなかったので」


 江文至は短く答えただけであった。ともかくも実戦で戦場に立てる人物ができたのは僥倖であった。


 劉六は軍事的な準備を進める一方で、医師としての仕事も疎かにはしていなかった。日常的な仕事は僑秋に任せることにしたが、一日のうち一度は診療所に帰り、様子を見ていた。


 「僑紹の様子はどうだ?」


 「大分と良くはなっていますが、まだ立ち上がるのはやっとです」


 「あいつには早々に回復してもらわないと私が本業に戻れないからな」


 「先生もお疲れのようで、ご無理をなさらないでください」


 劉六に診断書を渡す僑秋の顔色も優れなかった。


 「君こそ疲れているな。迷惑をかけている」


 「いえ……先生のことを思えば、私の心労など……」


 「医者は献身的でなければならない。でも、そのせいで倒れては元も子もない。程よい所で休みなさい」


 「はい……」


 と言いながらも僑秋はその場を去ろうとはしなかった。


 「どうした?」


 「何でもありません。二階で仮眠させてもらいます」


 「帰ってもいいんだぞ」


 「いえ、兄さんのことも心配なので」


 失礼します、と僑秋は診療室を出ていった。


 「仮眠か……。私も寝ておかないとな」


 劉六の計算では明後日の朝には尊夏燐軍が来着するだろう。そうなると寝ている暇もなくなる。劉六は椅子にもたれたままひと眠りすることにした。

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