寂寞の海~56~

 三日後、章季は印国に向かって出発した。付き従うのは禁軍将軍相宗如が指揮する泉国の精鋭百名。章季の護衛に相宗如を選んだのは、彼に武人としてだけではなく、行政官としての才幹に期待してのことであった。万が一、鑑京に到着した章季が退けられるようなことがあれば、相宗如はそれらを排除して一時的ながら鑑京を実効支配しなければならない。それには戦の事だけではなく、政治的行政的にも知悉している人物が最適であった。相宗如は相房時代に泉国北部の邑である泉冬を治めていた経験があるので、人選としては彼以上の人間はいなかった。


 今回も樹弘は章季を泉春で見送るだけに留めた。本当は樹弘自身も鑑京行きたかったが、周囲から止められた。


 『それでは完全に印公となる章季様が主上の傀儡と思われてしまいます。そうなれば章季様もやりにくいでしょう』


 甲朱関が代表して意見したので樹弘は従うことにした。


 章穂が亡くなってわずかに二年足らず。章友、章海、そして章季と三回も国主が入れ替わった。しかも公家というべき章家本家の血筋を受け継ぐのが章季のみになってしまった。印国にとっては大打撃となったことだろう。


 「印国の混乱はしばらく続くでしょうか?」


 樹弘は章季を乗せた馬車が遠ざかるのを見送りながら、傍らの甲元亀に尋ねた。


 「混乱はするでしょう。しかし、章季様はしっかりとなさっておりますし、左堅もおります。それに印国の人達も今回の動乱で平和を希求することでしょう。間を置くことなく平穏を取り戻すでしょう」


 「そうあって欲しいものですが……」


 「主上には何か思うことがおありなのですか?」


 「いや、元亀様が僕に結婚を勧めた理由が分かった気がしたんです。もう章家の生き残りは章季さんしかない。勿論、章季さんには長生きしてもらわなければならないのですが、章海みたいに急に病に侵されて亡くなってしまうかもしれない。そうなると誰が印国を治めるのだろうかと」


 甲元亀は黙って聞いてくれていた。


 「僕は国主というのは神器に選ばれた者が継げばいいと思っていた。だから僕が死んだとしても、神器に選ばれた人間が泉公になればいいと思っていた。でも、それが国内の混乱を生むかもしれないという事実を今回の印国の騒動で突きつけられた。僕が妻を得て、子を成すことが泉国の安泰に繋がるのなら、そうすべきなのだろう」


 「左様です。主上の子孫が国主に相応しければ、国民は歓迎いたしましょう。もし子孫が相応しくないのあれば、民は見捨てて、また新たな神器に選ばれた国主が誕生するだけです。要は神器など、真主を裏付けるための方便です」


 「はっきりと言いますね。でも、結婚については、これで振り出しかな?」


 「そうとも限りますまい。主上にはすでにお心に決めた方がいらっしゃるのではないですか?」


 甲元亀はしたり顔であった。すっかりと樹弘の心を見透かされていた。


 「元亀様はそれでいいと思っているんですか?」


 「老躯の意見など気になさってはなりません。すべては主上のお気持ち次第です」


 「じゃあ、保護者の許可をいただいたと思っておきますよ」


 「ほほ。実は密かにそうなることを望んでおりました。これで保護者としては肩の荷が一つ下りるというものです」


 甲元亀に励まされた気がした樹弘はついに決意した。




 夜が更けた。


 執務室で様々な書類と向き合っていた景朱麗は、最後の書類に目を通し終わると窓を見た。ついさっき夕日を見ていたと思っていたのに、もう月が天高く昇っていた。


 「もう夜になったか……」


 章季が印国に旅立ったことで、それに関する様々な案件が景朱麗の下に集まってきていたが、ようやくすべて処理し終えた。


 さて、遅めの夕食での取ろうかと思っていると、扉が叩かれた。


 「どうぞ」


 妹の景蒼葉だろうかと思っていると、樹弘であった。


 「主上!失礼しました。御用がありましたら、お伺い致しましたのに」


 景朱麗は立ち上がって樹弘を迎えた。樹弘が景朱麗の執務室を訪ねてくるのはこれまでなかったことだった。


 「いや、いいんだ。僕が用あって来たんだから」


 「では、おかけください」


 景朱麗が着座を促しても、樹弘は座りもせず、要件を切り出すこともなかった。


 「主上……?」


 「朱麗さん……。その……嫌ならば断わってくれてもいいんだけど……」


 「はい?」


 「いきなりのことで驚くかもしれないけど、僕の口からこんなことを言うのも何なんだけど……」


 景朱麗は首を傾げた。いつもは明敏で樹弘の言ったことなら一を知って十を知る景朱麗であったが、この時はばかりは察することができなかった。


 「あの……何かお困りごとでも?」




 「朱麗さん、僕の妃になって欲しい」




 景朱麗は絶句してしまった。突然のことに完全に思考が停止した。


 「国主である僕が丞相である朱麗さんにこんなことを言っていいものかどうかずっと考えていたんだ。でも、僕の妃にはやはり朱麗さん以外に相応しい人はいないし、生涯愛していけるのも朱麗さんしかいないと思えたんだ」


 樹弘が見つめてくる。熱い感情が込み上げてくる景朱麗はじっと樹弘を見つめ返した。じわりじわりと体が暖かくなってくるのを感じた。


 「勿論、じっくり考えて欲しいし、拒否しても構わない。そのことで貴女に不利益なことはしない。僕の気持ちは、伝えましたから」


 景朱麗としても返事は決まっていた。そのまま部屋を出ようとする樹弘の手を取った。




 「主上。お受けします。受けさせてください。私も主上の妃となることを望んでおりました。私も主上でなければ駄目なんです」




 「朱麗さん……」


 樹弘は振り向き、景朱麗を抱きすくめた。景朱麗も樹弘の求めに応じて、必死になって彼の体温を感じようとした。

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