寂寞の海~55~

 章海の死という情報を泉国にもたらしたのは紅蘭であった。紅蘭は鑑京にてその情報を得るや否や、鑑京を飛び出して一足飛びに泉春へとやって来たのである。


 一通り紅蘭の報告を聞き終えるまで樹弘は驚いた様子も見せず黙って聞いていた。そして紅蘭が語り終えると、ようやく感想らしくものを漏らした。


 「こういう言い方は好きじゃないけど、章海は天に罰せられたと言うべきかもしれないな」


 傍で聞いていた景朱麗は、実に樹弘らしくない言葉だと思った。元来、そのような迷信的なことを冗談程度にしか言わないのが樹弘という君主であった。


 「これで印公を継げる者は章季さんしかいなくなった。鑑京のお偉いさん達は章季さんに帰ってきてもらうようお前に働きかけるつもりだぞ」


 紅蘭が言うと、樹弘は急に怖い顔になった。紅蘭の言うお偉いさんはいずれも章海が国主になるために働き、それ以後も唯々諾々と章海に従ってきた連中である。言うなれば章季にとっては敵でしかない。それなのに章季を迎えようとする厚顔さが樹弘には許せないのだ。そういう不正義を許せないのが樹弘という君主なのである。


 「拒否してやる、と言いたいけど、章季さん次第だな」


 「主上、私から章季殿に申し上げましょうか?」


 「いや、いいよ、朱麗さん。僕がやる。これも保護している者の務めだ」


 あまりいい役割じゃないな、と樹弘はため息交じりに言った。




 その後、すぐに章季を呼んだ樹弘は章海の死を告げた。章穂、章友、章理という親族の死を立て続けに経験してきた章季。またしても身内である章海が亡くなった。しかし、その章海は姉と兄の敵である。どのような反応を示すかと樹弘は思ったが、章季は泣くことも喜ぶこともなく、淡々とした雰囲気で叔父の死を受け止めていた。


 『やはりこの人は強い……』


 きっと章季は自らが印公となることを受け入れるだろう。そして、印公となればその職務を全うできるだろう。樹弘はそう思えただけに、章季を全面的に支えていこうと決意した。


 「印国の閣僚達はあなたを印公として迎えようとしているようです。遠からず使者が来るでしょう。どうされますか?」


 「受けるつもりです。姉さんは茨の道を進んだのです。私が逃げて良い道理はありません」


 章季は即答した。おそらくは章海の死を知った瞬間からそうなることを想像し、即座に決意したのだろう。樹弘としては章季の意思を尊重するつもりでいた。


 「分かりました。章季さんがそう仰るのなら、僕は最大限に協力させていただきます。但し、僕としても章季さんを預かっている以上、貴女の命には責任があります。鑑京までの道筋は万事お任せください」


 「はい。お願い致します」


 章季は深々と頭を下げた。




 数週間後、樹弘が予測した通り、印国から使者がやってきた。彼らは章海が亡くなったことを告げると同時に、章季を新しい国主として迎えたい旨を告げた。樹弘は直接章季には会わせず、自ら応対することにした。


 「事情は理解したが、僕としては亡命してきた章季殿を預かっている身だ。章季殿の身を危険にさらすわけにはいかない」


 樹弘は自分のことを公的な場では『私』という。しかし、感情が高ぶると普段使っている『僕』に変わる。今は感情が荒ぶっているのだと傍で聞いていた景朱麗は思った。


 「そのようなことは……」


 「貴様らは章海を担ぎ、先の国主であった章友殿を討ち、章理殿を討った。今度は章季殿を討つつもりであろう!」


 樹弘は声を荒げた。感情は荒れているの確かであるが、半分は演技であった。ここで章季の保護者となる樹弘が強硬に出なければ、彼らは章季が不都合となればあっさりと排するだろう。


 「そのようなことはありません!章友様と章理様を討ったのも我らとしては不本意でした」


 「黙れ!寄生虫共!貴様らは章海の傍にいながらも、章友殿を討って国主の座を奪うのも、章理殿を倒すことも諌止することなく、章海のやりたいままにやらせたではないか!要するに章海に阿って正義を示さなかった寄生虫だ!」


 樹弘の言葉は過激であった。ここまで言葉の悪い樹弘の発言を景朱麗は聞いたことがなかった。それだけ樹弘は怒っているのであり、怒りを示さなければ章季は印国での立場を確立することができないだろう。


 「それはあまりの言い様……」


 使者は顔を真っ赤にしながらも黙り込んでしまった。樹弘の暴言に怒りを感じながらも、言い返せなかった。彼らも自分達の行いが不正義であったと心のどこかで認めざるを得なかった。


 「だが、印国には印国の事情もあろう。印公就任については章季殿に僕から言う。ただし、条件をつけさせてもらう。一つは鑑京までの章季殿の護衛は我が軍が引き受ける。章季殿が安全に政務が行えると判断できるまで我が軍は鑑京に駐留させてもらう」


 この時すでに樹弘は紅蘭から商船を買い上げ、簡略ながら改造して軍船として二隻所持していた。二隻あれば百名の兵を印国に送ることができた。


 「それでは我が国は貴国の傀儡に……」


 「もう一つは、万が一、今後章季殿に傷一つつけるようなことがあれば、僕が自ら出撃して章季殿の敵となる者を悉く討つ。その覚悟があるのなら、章季殿に話をしよう」


 樹弘は使者の言葉など聞かなかった。一方的に言いつけ、返答を迫った。鬼気迫る樹弘に使者たちは降参したように頷くしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る