寂寞の海~54~

 章理の反乱を鎮圧させてから三か月が過ぎようとしていた。その間、章海はより一層、市井を気にした政策を行った。


 「戦乱で国内の経済が疲弊している。民が安らかに過ごせるように対応すべきだ」


 章海はさらなる減税や、民衆が喜びそうな政策を推し進めていった。しかし、これもまた章理を討ったという後ろめたさの表れであり、民衆の多くは章海の政策を心から喜ぶことはなかった。


 特に章理の死は章友の死以上に民衆に衝撃を与えた。章理が国主に相応しい器であったことは民衆も知っていたし、なによりも章理が圧倒的不利な状況ながら章海に立ち向かい、善戦したということが人々の心を打った。章海は明敏にそのことを察したからこそ糊塗するように民衆の機嫌取りを行っていた。


 そして閣僚達も章海に対して暗い目で見るようになった。章海とは所詮武力で紛争を解決する君主なのだという印象を抱かざるを得ず、もし自分がしくじったり、章海の意に反するようことをすれば、やはり武力でねじ伏せられるのではないかという疑心が彼らの中に生まれ始めた。章海が国主になることを歓迎した閣僚達も距離を取るようになり、朝堂で発言する者もいなくなっていた。


 『私は孤独だ……』


 閣僚達がよそよそしくなったことも、章海は察することができた。結局、自分は生まれた時から今まで孤独なだけだったのではないか。唯一、そう本当に唯一、師となってくれた現在の翼公―楽乗こそが章海の理解者ではなかったのではないか。


 『翼公なら私の行いを理解してくれる』


 心の中でそう思えるからこそ章海は今日まで生きてこれた。そう言っても過言ではないほど、章海は翼公を慕っていた。


 翼公に書状を送ろう。きっと翼公は自分に温かみのある返信を寄こしてくれる。すがる思いで章海が執務室で筆を取った時であった。頭の中がぐらんと揺れたと思ったら、章海を筆を落とし、椅子から滑り落ちる様に床に倒れた。


 「だ、誰か……」


 章海は叫んだつもりであったが、声はまるで出ていなかった。だが、倒れた時の物音で気が付いてくれたのか、慌てた足音で衛兵達が入ってくる様子が感じられた。


 「だ……」


 もはや声が出せず、章海は意識を失った。




 半日後、寝台で目を覚ました章海であったが、体が思うように動かなかった。枕頭には閣僚と医師達が侍り、不安な眼差しで章海を見下ろしていた。


 「やめろ……。まるで私が死ぬみたいじゃないか」


 章海はそう言ったつもりであったが、声が出ていなかった。医師が章海の口元に耳を近づけてきたので、もう一度言ってみたが、ぜえという息が漏れただけであった。


 『声が出ないだと!』


 章海は背中にじわりと汗が噴き出てきたのが分かった。


 「何かの病か?」


 当然、声に出してみた。しかし、医師と閣僚は首をかしげるだけであった。


 「どういう病なのだ?」


 銀芳の声であった。他人の声はいやによく聞こえる。


 「分かりません。このような症状初めてなので……」


 「嘘をつけ!医師なら分からるだろう。分からないで、なんのために医師をやっている!」


 これも聞こえていない。医師と閣僚が顔を見合わせているだけで、誰も章海を見ようとはしていない。


 「聞け!お前達!」


 「毒を盛られたとか?」


 「その可能性は低いでしょう。遅効性の毒物なら、このように急激に悪くはなられませんし、このような症状を見せる毒物など聞いたことがありません」


 「聞け!おい!」


 口を開くこともできていないのか。全身がけだるく、もはや息を漏らすこともできなかった。体が熱くなり、力が抜けていき、意識も朦朧としてきた。


 『私は……こんなところで死ぬのか……』


 自分が何をした、と章海は叫びたかった。このようなところで突発的に死を迎えるような報いを受けるような行為をしただろうか。


 した、と言えばしたであろう。武力で章友の持っていた国主の座を奪い、武力で章理を倒した。しかし、それは章海が国主としてあるためにせねばならないこと。つまり、必要悪であったのだ。それがために報いを受けよ、というのであれば、報いを与える側が間違っているのではないか。


 『私は、印公だぞ!』


 国主に相応しい才能を持ちながら国主になれず、それをある意味で取り戻すためにやむを得ず武力を用いたのだ。それの何が悪いのだ。


 『私が、悪いのか?何が悪かったのだ?』


 問いかけるが、何も返ってこなかった。虚空の中で一人叫んでいるだけであった。


 『いやだ!私は、私は死にたくない!』


 閉じゆく視界の中でうっすらとした光を感じた。それが章海には希望の光を見えたが、光は残酷に語りかけてきた。


 『もはや死は免れません。貴方はそういう運命なのです』


 章穂の声であった。まるで章穂が迎えに来たようであった。


 『章穂!貴様が私を泉下に引きずる込むのか!』


 『私ではありません。私達です。私達は罪を犯し過ぎました。その報いです』


 『どういうことだ!』


 『私は世間を謀り、我が子を国主にせんがために勅諚を偽りました。そして、あれだけ愛した貴方を裏切った。報いは受けるつもりです』


 『私には関係ない!』


 『貴方は自分の野心のために甥と娘を殺したのです』


 『娘?どういうことだ?』


 章穂の声がもう聞こえなかった。章海も語り掛けることができず、意識は完全に停止した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る