寂寞の海~8~
翌朝、樹弘は再び章穂に東屋に呼ばれた。そこには章理もおり、昨晩の謝罪をされた。
「泉公、昨晩の無礼、どうかお許しくださいませ」
章穂は深く頭を垂れた。対する章理は小さく頷く程度であった。
「お顔をあげてください、印公。私も当然のお話でびっくりしました。章理さんもそうなのでしょう」
樹弘としては章理を擁護したつもりであったが、彼女はまるでこちらを見ていなかった。
「お心遣いありがとうございます。ですが、婚儀のことは真剣に考えていただきたいのです。我が国と泉国、この二国が縁戚関係になれば、両国はさらに発展いたしましょう」
昨晩、あのようなことがありながら、それでも執拗に婚儀の話を進めようとする章穂に疑問符を持たずにはいられなかった。樹弘からするとまるで婚儀を急いでいるように思えた。
「印公。失礼ながら、どうしてそこまで私と娘さんを結婚させたいのですか?それだけ私のことを評価していただいているのなら嬉しい話ですが、何やら急がれているような気がしてならないのです」
樹弘の言葉にそれまで饒舌であった章穂が黙り込んでしまった。章穂にとって都合の悪いことでもあるのだろうか。
「それは母上は私と季をこの国から追い出したのです」
黙る母に対して章理が応じた。この時、樹弘と章理は初めて目が合った。感情の読み取れない冷たい目をしていた。
「何を言っているのです!貴女は!」
「事実ではないですか。母上は早く友を国主にしたいから、私達を追い出したいだけでしょう」
見る見るうちに章穂の顔が赤くなっていった。対する章理はどこまでも顔色を変えず、冷厳であった。
「泉公、今日はこれで失礼します。この話はまたいずれさせていただきます」
顔を真っ赤にしたままの章穂は怒りに肩を震わしながら東屋を出て行った。章理は樹弘に丁寧に黙礼すると、母の後を追っていった。わずかな時間であったが、原因の根が深そうな親子喧嘩を見させられた樹弘は、ただそれだけで疲れてしまった。
章穂との対面を終えた樹弘は、宮殿の中にある迎賓館の宿舎に戻らず、鑑京の街中に出ていた。供をしているのは景弱ひとりであり、ある人物に会うためであった。その人物には予め会いたい旨を連絡していたので、建物の外に出て待ち構えていた。
「おっす!ちゃんとたどり着けたみたいだな」
その人物とは紅蘭であった。
「よお、こうして見るとちゃんと商人をしているな。それに立派な商店じゃないか」
紅蘭の商店は鑑京の目抜き通りから少し離れていたが、建物としてはなかなか大きく、軒先にも商品が並んでいた。
「どうも。まぁ、建てたのは親父なんだけどな」
あがってくれよ、と紅蘭は中に招いた。働いていた使用人達が元気に挨拶をしてくる。商人としての紅蘭の質の良さを感じずにはいられなかった。
「ご両親はここに住んでおるのか?」
「ああ。奥にいるよ。隠居同然だが、私がこっちにいない時は色々頼んでいる」
「ご挨拶した方がいいかな」
「よしてくれ。泉公が現れたと知ったら腰を抜かして立てなくなる」
使用人にも内緒だからな、と言った紅蘭は応接室に案内してくれた。応接室といっても机と椅子が二つあるだけであり、景弱には外で待ってもらうことにした。
「で、どうかね、印国は?」
「いいところだな。それはそれとして紅蘭に訊きたいことがあるんだけど」
樹弘は包み隠さず、印公の公女と婚儀の話が持ち上がっていることを告げた。最初は大爆笑していた紅蘭であったが、章穂と章理の仲違いのことに話が及ぶと、顔色を改めた。
「なるほどね。樹弘との婚儀は、章理様と章季様を追い出すためか。的を射ているかもしれないな」
「そうなのか?」
「うん。生まれた順番は章理様、章友様、章季様なんだ。男女の差をなくせば、長子は章理様なんだ」
樹弘はその点は誤解していた。てっきり章友が長子だと思っていた。
「でも、今の印公、章穂殿は女性だ。女性である章理様が太子となってもおかしくないはずだな」
「そう、そこなんだ。どうも印公は章理様がお嫌いで、逆に章友様を溺愛しているらしい」
らしい、というよりも公然と囁かれているけどな、と紅蘭は続けた。
「ところが、だ。章友様は、どうにもやや抜けたところがある、それが印公はご不満であり、気がかりなところなんだ」
抜けている、という表現は分かり辛かったが、少なくとも昨日の対面だけを考えれば、年相応の如才さや社交性はないように思われた。
「それに引き換え、章理様は頭脳明晰であの美貌と来ている。どちらが国主として相応しいか、問うまでもないだろう」
なるほどな、と樹弘は思った。章穂と章理の仲の悪さは単純であったが、それだけ根深いであろう。
「こりゃ、結婚なんて簡単にはできないだろうな」
「そう言って逃げている場合じゃないぞ。で、樹弘としては章理様と章季様、どっちが好みだった?」
どっちなんだ、と執拗に聞いてくる紅蘭に樹弘は辟易とした。
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