寂寞の海~9~
章友を国主にしたいから追い出したいのでしょう。
章理のこの一言ほど章穂にとって堪える言葉はなかった。何故ならばこの言葉はまさに正鵠を射ていたからであった。
章理は母から見ても知性高く、優秀な娘であった。彼女が長子なのだから、次の印公が章理であってもおかしくはなかった。他国はいざ知らず、印国において歴代の中で女性国主は決して少なくない。事実として章穂自身女性であった。もし章理が男であったならば、迷うことなく章理を太子としただろう。
だが章理は男ではなく、次に生まれた章友が男であった。母親として男の子供ほど可愛くて愛しいものはなかった。章友が生まれた瞬間、この子が次期国主になるのだと強く願っていた。
章友は健康健全に育っていった。幼少の頃から読書が好きで、武術なども一通りこなしていた。きっと文武両道の良き国主になるだろうと期待を膨らませていた。
しかし、何時の頃からか、どうにも章友の育ちに鈍さが表れ始めた。他の同年代の子供ができて当然のことができなくなったり、勉学の面でも遅れ始めた。武術については習うことも放棄し、いつしか部屋に閉じこもるようになってしまった。
『あれは太子に相応しくないかもしれん。私でもあの年になれば、国辞を通読することができた。弟の章海は五歳で諳んじていた。しかし、まともに文字すら読めないようでは。どうにもなるまい』
最初に言いだしたのは夫である章平であった。章穂は震え落ちそうになった。
『お待ちください。友はまだ若年です。それであの子の将来を判断するのは尚早というものでしょう』
章穂は必死になって抗弁した。ここで章平が太子を違う人間を指名すれば、章友が太子になる可能性がなくなってしまう。
実はこの時、章友の他に有力な後嗣候補がいた。章平の弟、章海である。章穂にとっては因縁浅からぬ人物であり、章平も兄弟として章海に対して感情的に含むところを持っていた。その具体的な内容までは章穂も知らぬことであったが、章平は章海に対して明らかに後ろめたいものを感じていた。
章海は印国では知らぬ者がいないほどの才人であった。わずか十二歳で朝議に参加し、並み居る閣僚の前で臆せず意見を言って人々を唸らせたという。しかし、章平が国主となると鑑京から去り、悠々自適な生活を送っていた。
それでも鑑京の社交界に顔を出すことも度々であり、その名前を衰えさせることはなかった。章穂は確認していないのだが、章平は内々に章海を宮殿に呼んで政治に対する意見を求めていたともいわれている。
章穂は戦々恐々とした日々を過ごしていた。いつ章平が後継に章海を指名するか分からない。章海が後嗣となれば異論を挟む者はおらぬであろうし、そうなれば章友が太子となることは永久になくなってしまう。
そして章穂の恐怖の日々は、突如として終わりを告げた。章平が急死したのである。
前日まで章平は普通に過ごしていた。章穂も夕食を共にし、子供達とも他愛もない雑談をして一日を終えようとしていた。しかし、その数刻後、湯殿で倒れたという報せを受けたのである。
章穂は震える足で章平が運ばれた部屋に向かった。裸体のまま寝台に寝かされた章平はぴくりとも動かなかった。
「侍女達には口止めを。子達にもまだ知らせてはいけません」
夫はもう助かるまい。直観的にそう感じた章穂は、やらねばならぬことがあった。章平の死を先延ばしし、遺言を作成せねばならなかった。
章穂はすぐに祐筆の張鹿を呼んだ。遺言の偽造には欠かせない人物であった。張鹿は青ざめた顔をして部屋に飛び込んできた。
「主はもうお目覚めにならないでしょう。何事も言うことなくお隠れになられました。政は閣僚がやってくれるでしょう。しかし、後嗣についてはそうもいきません」
祐筆である以上、張鹿も章平とその後継者をめぐる微妙な情勢を知らぬわけではなかった。だから自分がこれから命じられるであろうことを察して怯えを顕にした。
「章穂様……それはなりません。国主の言は天の言葉に等しいのです。偽りを認めるわけにはいきません。後嗣のことは閣僚の皆様に委ねるべきです」
張鹿の意見は常識的であり正論であった。だが、章穂は頷くわけにはいかなかった。
「閣僚に委ねれば後嗣は章海殿となりましょう。そうなれば我が子、章友はどうなるのです。あの子は一生部屋住みで終わってしまいます」
人目に触れられることなく、一生部屋で植物のように暮らすのである。そのような我が子を見ていると、堪らなく悲しくなった。
「章穂様、それはお考え過ぎです」
「張鹿。あなたの意見は聞きません。後嗣を章友とする遺言を作成するのです。さすれば……」
「お待ちください、章穂様」
張鹿は言葉を遮った。
「お気持ちは理解しました。しかし、ここで章友様を後嗣とするのは難しいでしょう。章友様はまだ若年でございます。それに度々主上は章友様に不満を漏らしておりました。主上がご指名したとしても不自然に映るかもしれません」
章穂は言葉を詰まらせた。確かにそうなのだ。まだ幼年の章友を後嗣に指名して亡くなったというのは、後嗣をめぐる情勢を考えれば不自然だと騒ぐ者もいるかもしれないし、なによりも幼年の章友に国主が務まるかどうか不安ではあった。
「では、どうすればいい?」
「章穂様が後嗣に指名されたと遺言に記すのです」
どくりと全身の血が急激に流れ出すような感じがした。
「私が国主に?」
「左様です。章穂様ならばいかなる批判を受けても受け止めて押し切ることができるでしょう。章友様を太子にするにはそれしか御座いますまい」
「張鹿、本気か?」
「本気でございます。私も覚悟を決めました。こうなればどこまでも章穂様に従ってまいります」
章穂も腹を括るしかなかった。章穂と張鹿は間を置くことなく遺言の偽装に取り掛かった。
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