孤龍の碑~37~

 年の瀬も押し迫った義王朝五四六年十二月。それまで比較的平穏であった龍頭が突如として騒擾の火中に包まれた。


 極国軍の駐屯軍司令官であり弁務官でもある石宇徳のもとに、兵舎が何者かの手によって襲撃され、火をつけられたという報せが届けられた。


 『来たか!』


 深夜ということもあり眠りについていた石宇徳はかっと目を開いて跳ね起きた。石宇徳はこの時をずっと待っていた。彼は魏靖朗よりいずれ龍頭で騒擾が起こるであろうと言い含められていた。


 『いずれ龍国の連中は騒動を起こす。そのために我らは寛容であり続け、馬求の行方も放置しているのだ』


 極国が完全に龍国を併呑せず、龍玄にも寛容さを示し続けてきたのは、龍国の民衆の感情を考えてのことであった。民衆に対して非寛容であった龍国の公室であるが、これを慕う者も少なくない。龍国を完全併呑し、公室を排すればそれに反発する者もいるであろうと魏靖朗は考えていた。


 そこで一度は寛容さを示し、龍国公室を許したことで庶民感情を和らげておいて、その上で龍国の側から騒擾を起こさせれば、その責任は龍国にあり、極国としては堂々と龍国に非を鳴らして龍国を併呑できると考えたのである。


 『これは陽動で、狙いは龍玄か龍信であろうよ』


 戦場での勘は決して悪くない石宇徳は、そう判断した。


 『騒動は大きくなれば大きくなれ程よい。特に龍玄や龍信の失態であれば、龍家への信頼も失われるであろう』


 魏靖朗にそのように言い含められている石宇徳は、あえて敵の罠に嵌ることにした。


 「急ぎ兵舎に兵を集めろ。それと民衆への安全を最優先とせよ」


 石宇徳の命令は徹底された。兵舎襲撃犯を撃退する一方で、類焼した近隣家屋の消火を行わせた。極国軍への心象を良くするためであり、実際にこのことが龍国ーというよりも龍家を窮地に追いやるのであった。


 騒擾は一夜で鎮静化したが、獄に繋がれていた龍信が脱走したという報告が石宇徳のもとに寄せられた。


 『狙いは龍信か。ということは、下手人は馬求一味だな』


 馬求一味が龍玄ではなく龍信を旗頭にして反旗を翻そうとしている。その程度のことは石宇徳にも判断できた。その後どうすべきか、ということまですぐに思考の回らない石宇徳であったが、事前に魏靖朗から受けた助言を思い出した。


 『何か起こればとにかく騒げ。騒いで事を大きくすればいい』


 石宇徳は、部下達と相談しながら、したたかに動き出した。まず動いたのは、龍頭住民への撫育であった。


 「昨晩の放火は、馬求一味の仕業であると判明した。我らだけを狙うのであればよいが、住民を巻き込んだことは許されん」


 この場合、実際に犯人が馬求であるかどうかはどちらでもよかった。ただそう宣伝することで龍頭住民の龍国への心象を悪くすることが目的であった。そして石宇徳は、極国軍の兵士を使って焼失した家を建て直させた。この行為は龍頭住民の極国軍への心象を著しく向上させた。


 さらに石宇徳は、龍玄と龍国の閣僚達を集め、龍信逃亡について激しい口調で詰った。


 「我らは貴国と太子龍信の名誉を重んじて龍信の身辺を貴国に任せていたのに、これはいかなる事態か!」


 石宇徳は殊更激しく怒ってみせた。こういう演技を迫力もってできるというのは、まさに石宇徳ならではであった。


 「そ、それは我らの預かり知らぬこと。賊の仕業でありましょう」


 閣僚の一人が怯えの色を隠さず抗弁した。


 「その賊に易々と太子を奪われることが問題なのだ。まさか貴公らも賊の仲間で、わざと牢を破るようにしていたわけではあるまいな」


 ひと睨みすると歴戦の兵士も怖じづくといわれる石宇徳の眼光に、戦場の経験がない文官が耐えられるはずがなかった。抗弁した閣僚は真っ青になりながらも、小さな声でそのようなことはない、と続けた。


 「襲ったのは馬求達だろう。そのもの達は関係ない」


 流石というべきか、龍玄は落ち着いていた。石宇徳も、この人物に対しては丁重にならざるを得なかった。


 「では、その馬求をここに連れてきてもらいましょう」


 「馬求はすでに丞相ではない。居場所など余の知らぬところだ」


 龍玄は石宇徳が思う以上に肝が太そうであった。その肝の太さをもって国政にあたっていれば、現在のような事態にはなっていなかったであろう。


 「ならば貴国に捜査能力がないと見做して、我らが賊の逮捕と処罰を行うがよろしいか?」


 「好きにすればいい。もはや余には何の権限もないのだから」


 龍玄は声を落とした。石宇徳は、どうにも捉えどころのない男だと少し困惑した。




 その晩のことである。袁干は相変わらず龍頭で軍務に追われていた。現在、龍国に認められている兵力はわずか五百名に過ぎない。これは現状の龍国領土における治安維持を目的とした必要最小限の人数であった。


 『捜査能力がないと言われても仕方あるまい』


 袁干は事務方であるため、今朝の石宇徳の罵声を聞いていない。後になって形ばかりの上長に事のあらましを聞いて、おおよそ極国が何を意図しているか勘付き始めていた。


 『極国は馬求一派を暴発させようとしている』


 この一言につきると断言しても良かった。馬求達を暴発させておいて、これを鎮めて一気に龍国の勢力を一網打尽にしてしまおうというのが極国の目的ではないかと馬求は考えていた。この考えは魏靖朗の台本とほぼ同様であり、それを見抜いていた龍国の要人は袁干ただ一人であった。


 『これはますます青籍将軍から任された宿題を進めなければなるまい』


 青籍が軍を離れる際に、袁干に任せていたことがあった。それは密かに青籍の息のかかった戦力を温存し、隠しておくことであった。


 『このまま平穏なままで終わればいいが、おそらくはそうはいかないだろう。だから万が一のためにも戦力は残しておきたい』


 というのが青籍の意思であった。そこで袁干は、かつて炎城に籠って戦った兵士の半数近くを戦死あるいは逃亡扱いにして戸籍から抹消する一方で、心ある将兵達には青籍の意思を明かして、大人しく青籍からの命令を待つように言い含めていた。そして武具なども秘密裏に横流しをして隠して貯蔵し、いざという時にはすぐさま軍を組織するように段取りを整えつつあった。


 仕事を終えた袁干が引き上げようと執務室を出ると、待ち伏せていたように人が立っていた。さっと身構えた袁干に対して、その人物はそっと囁いた。


 「主上がお呼びです」


 女性の声であった。しかも龍玄が呼んでいるという。


 「主上が?」


 嘘ではあるまいと思った。青籍と敵対する何者かがそのような嘘をついて袁干に害を及ぼすとは考えらなかった。しかし同時に龍玄が自分を呼ぶ理由も分からなかった。龍玄が自分のような将軍にもなっていない武官のことを覚えているとは思えなかった。


 「どのような理由ですか?」


 「ここでは申せません。ぜひご同行ください」


 一瞬逡巡した袁干であったが、このことが龍国の運命を大きく変えるとは予測できるはずもなかった。

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