孤龍の碑~27~
龍国軍の陣営から逐電した龍信は逃げに逃げた。供回りは近侍と寵姫を含めて三十名ほど。武人として戦えるのはわずかであったので、敵を避けながら龍頭を目指したことになり、時間が掛かってしまった。そのため牙玉での敗報と龍信が龍頭に到着したのはほぼ同時であった。当然ながら、龍信が総大将でありながら逐電したことも、趙奏允を逃がすために鉄拐が戦死したことも、龍頭の人々は知る所となった。
「総大将でありながら兵を置き去りにして逃げ出すとは何事か!武人としての風上にも置けん!」
龍信を前にして龍玄は珍しく赫怒した。およそ人に対して感情を顕にしたことのない龍玄だけに、龍信は龍玄の怒気に身をすくめた。
「龍信を廃嫡する!いや、処刑せねばならぬ!」
龍信の敗走は単なる敗走ではない。まだ彼我の勝敗が決していない段階での逐電であり、大将としての責務を放棄しての、多くの兵士達を見殺しにしての逐電である。後に分かることであるが、今回の出征で生きて龍国に帰れたのは約半分であった。残りは戦死あるいは負傷して極国の捕虜になったのである。このような惨状で総大将が処分されぬわけにはいかなかった。
「お待ちください、主上」
すかさず声を上げたのは虞洪夫人であった。
「太子は主上にとって唯一の嫡男。それを廃すれば跡を継ぐべきものがおらず、国の乱れとなります。お怒りは尤もながら、国家のために寛大な処置をお願いいたします」
「分かった。太子への処分は一時保留とする」
後世、このやり取りは茶番であると言われている。龍玄としては敗戦の大きさ故に龍信に対して厳しく出ねば国主として示しがつかなかった。だからと言って本気で龍信を処分するつもりなどなく、虞洪夫人がそれを止めに入るであろうと予期していたから発言したといわれている。真実は分からぬが、結局は龍信が処分されなかったことを考えれば、的を得た予断であると言えた。
龍頭でそのような茶番が行われていた頃、炎城でも龍国軍大敗の方がもたらされ、鉄拐の死も命からがら逃げ込んできた趙奏允によって知らされることになった。
「鉄将軍が……」
鉄拐の死を聞かされた青籍は、暫し呆然として立ち尽くしていた。青籍からすればかつての上官であり、先の炎城の戦い以後は忠実な部下としてよく働いてくれた。青籍が追放された時も弁明してくれた数少ない味方であった。それだけに鉄拐の死は衝撃的であり、自分の体が一部削げ落ちたような苦痛を感じた。
「青籍、すまぬ。本来なら儂が代わりとなって鉄拐を生かすべきだったのだが……」
趙奏允も満身創痍であった。着用している鎧に傷がついていない箇所などなく、露出している部分も傷だらけであった。老体ながらよく生還できたものだと頭がさがる思いであった。
「そう仰る趙将軍だからこそ鉄将軍は生かそうと思われたのです」
青籍はそう言いながらも、鉄拐の死は大きな損失であった。青籍の戦略からすれば、自分と趙奏允が出撃した時に、炎城の守備を任すことができる唯一の存在が鉄拐であった。
『それだけではない……』
龍国軍全体のことを考えれば、鉄拐だけが損失ではない。多くの将兵の命も大きな痛手であるし、今回の出征で極国を刺激したことも青籍からすれば問題であった。
「鉄将軍の死を悼んでいる暇はありません。この大勝を機に極国軍は攻めて来るでしょう」
青籍の懸念を袁干が代弁してくれた。青籍が恐れているのはまさにそれであった。
「道理だな。龍国軍は未曾有の大打撃を受けた。敵としてまさに攻め時だろうな」
趙奏允も同意見であった。しかし、今の青籍に何もできることはなかった。全軍の統帥はいまだ国主である龍玄が握っていていた。
「我らが主上の賢明な判断を待つしかない。これほど不安なことはないな」
「超将軍はしばらくゆっくりと傷を癒してください。袁干は敵軍の情報を収集してくれ」
青籍は自分ができる最大限の命令を出した。
青籍の悪い予感は的中した。極国では大勝を得て帰還した譜天達を労う一方で、呉忠は配下の文官武人達を集めて宣言した。
「この度の大勝は各将軍と、何よりも兵士諸君の尽力によるものであり、私は心より感謝を申し上げたい。卑劣にも龍国は先主が死して我らが悲しみの淵にいるうちに攻めてきた。私はこれを許すことができない」
延臣を前に演説する呉忠の姿は実に堂々としていた。これまで将軍として活躍する機会はあったが、こうして衆人の前に姿を現して政治的な示威好意をするのは始めてであった。それだけに堂々たる勇姿は魏靖朗にとっては意外であり喜びでもあった。
『このお方なら龍国を倒せる』
呉忠を国主にし、これに譜天の軍略が加われば龍国を圧倒できる。魏靖朗はそう確信していた。
「征旅が続き兵は疲弊し、民も疲れていることであろう。だが、今ひとつ私に力を貸して欲しい。諸君らが愛してくれた先代のためにも今度は私自身が陣頭に立って龍国を討つ!」
呉忠が天に拳を突き上げると万雷の拍手が起こった。勿論、この拍手にさくらはない。居並ぶ文官武人達が心より発した拍手であった。
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