黄昏の泉~61~
翼公が泉国に侵入したという報せは、泉春に潜伏している間者から貴輝にもたらされた。景朱麗などは泉春へ進撃しようと色めきだったが、甲朱関は冷静であった。
「おそらくは静公が翼公をそそのかしたのでしょう。泉春近郊の兵力が少なくなればそれでよしですよ。我らは今までどおり焦らずに各城を攻略していけばいいのです。主上もそう仰られていたではないですか」
樹弘への報告を終えた甲朱関は、並んで歩く景朱麗に言った。
「納得はしているよ。しかし、目の前に好機がぶら下がっていても、主上は冷静であられる。最近は主上から教えられることが多い。私もまだまだだな」
景朱麗は色めきだった己を恥じ反省していた。そのことを素直に吐露したのだが、横で聞いていた甲朱関はぷっと吹き出した。
「何がおかしい!」
「いや、失礼。朱麗姉さんがあまりにもしおらしいかったので……つい」
「馬鹿にするな。主上は自らが我らの主となるために変わられた。私も変わっていかなければ、主上に置いていかれる」
変えたのは蓮子である。悔しいことではあるが、それは認めねばなるまい。景朱麗も変わらねば、樹弘だけが先へ先へと行ってしまうような気がしてならなかった。
「その主上のことだが……」
甲朱関は何事言おうとして、すぐに口をつぐんだ。
「どうしたんだ?言い淀んで何も言わないのはずるいぞ」
「いや、朱麗姉さんに言うべきことかどうかと思ったんですが……」
「主上のことならば私が知らないわけにはいかないだろう」
甲朱関はちらっと景朱麗を見て、思い切って切り出した。
「女性のことです。主上はお求めにならないが、夜を共にされる女性を必要とされないのだろうか、と思ってしまいまして」
甲朱関に言われ、景朱麗は顔を真っ赤にした。そのようなこと考えたこともなかった。同時に胸が激しく揺れ動いた。樹弘が知らぬ女性と閨で仲睦まじくしている光景を思い浮かべると、動悸が激しくなってきた。
「どうしました、朱麗姉さん?」
「何でもない……。主上がお求めにならないのなら、それはそれでいいのではないか?」
「それもそうですが、いずれ主上には妃を得てお子をなしていただかなければならない。その、主上が女性に興味がないのであれば、それは問題だと思って……」
「朱関らしくな取り越し苦労というものじゃないのか?生真面目な主上のことだ。今は必要とされていないだけのことだろう」
景朱麗は動揺を悟られまいと言葉を並べたが、ついつい早口になってしまった。甲朱関は一瞬、景朱麗を見ただけで小さくな頷いた。
「それもそうですね。気が早すぎました」
甲朱関はそれで樹弘の女性に関する話は打ち切ったが、景朱麗は気が気でなかった。樹弘はいずれ誰かを妃として迎える。そのことが景朱麗の胸に端にわずかばかりの燻りを残した。
それでも最近の樹弘は心配になる程、気が詰まるような日々を過ごしていた。朝議が終わると、景蒼葉から文字や歴史を教わり、景黄鈴を相手に剣撃の鍛錬に励んでいた。まるでそれ以外のことを知らぬようであった。
『このままでは主上は倒れられるのではないだろうか……』
せめて寸暇でも気に休まる時が必要ではないだろうか。しかし、そのようなことをどのように進言すればいいのか分からぬ景朱麗は、悩んだ末に田碧に相談することにした。妹達にすれば、笑われると思ったのだった。
「はぁ、主上が働きすぎだと朱麗様は仰るのですか?」
田碧は行政官として景朱麗の下で働いる。妹達のような遠慮のないところがなく、こういう仕事と関わりのないことでも真面目に聴いてくれた。
「そうなんだ。朱関は側女を置けばいいと言うんだが……」
「朱関様が?」
田碧は意外そうな顔をした。実際には甲朱関はそこまでは言っていないのだが、やはり樹弘の側に女性が必要なのかどうかという問題が景朱麗に引っかかりを残していた。
「主上がお求めにならないのでしたら、わざわざ臣下が気にしていらざるものを用意する必要はないかと思います。それに主上は真面目でございますから、性を発散することで気を紛らわすような真似は必要となさらないのでしょう」
「そうか、田碧もそう思うか」
景朱麗はほっとした。その顔をまじまじと田碧が見ていた。恥ずかしくなって景朱麗は、わずかに視線を逸らした。
「な、なんだ!」
「これはご無礼しました。何でもありません。しかし、主上が働きすぎというのは確かだと思います。だからと言って主上に宴席や歌舞音曲をお勧めしても、きっと今は拒否されるでしょう」
田碧のいうとおりであった。樹弘はそのような貴族がするような行為を頑なに拒否していた。少なくとも相房を倒すまではできないと何度も公言していた。
「主上はその点では頑固だからな」
「どうでしょう?これから主上をお誘い茶を喫するというのは。主上と私と朱麗様だけで」
「私達だけ?」
「あまり人を呼ぶと政治談義になるでしょう?だから朱麗様も政治的なお話はなさらないでください」
「あ、ああ……」
「私は準備いたしますので主上をお連れしてください。ふふ、いいお茶が入ったんですよ」
田碧は嬉しそうに先を急いだ。田碧が茶好きであるということを景朱麗はこの時になって知った。
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