黄昏の泉~62~

 景朱麗が部屋に入ると、樹弘は一人で文字の練習をしていた。幸いにして妹達はいなかった。


 「朱麗さん、どうしました?」


 樹弘が筆を置き顔を上げた。


 「精が出ますね、主上」


 「勅諚ぐらいは自分で書けるようにならないとね」


 なんと真面目な方なのだ、と景朱麗は感嘆した。そういう人物を主と仰ぐことができるのは喜び以外の何物でもなかった。


 「それでどうしましたか?」


 「主上、少し庭を歩きましょう。今日はいい天気ですよ」


 樹弘は少し不思議そうな顔をしたが、いいですよ、と言って立ち上がった。景朱麗はほっとした。


 庭に出た景朱麗は樹弘を先導するように先を歩いた。やがて東屋が見えてきて、田碧が立っていた。


 「主上、お待ちしておりました。ささ、お座りください」


 樹弘が問うように景朱麗を見た。景朱麗が言葉に迷っていると、田碧が助け舟を出してくれた。


 「たまに主上に寛いでいただこうと、お茶でおもてなしをしようと企画したんです。さぁ、どうぞ」


 「なんだ、朱麗さんのことだから、何か密談でも始まるのかと思った」


 樹弘が苦笑しながら席に座った。景朱麗はどこか釈然としないまま、樹弘の隣に座った。


 「でも、お茶だなんて贅沢じゃないかな……」


 「そうですね。お茶は確かに贅沢品ですが、市井の人々も、寛ぎを求める時は茶を喫します。ささやかな楽しみですね」


 田碧はそう言って急須から茶碗に茶を注いだ。輝くような薄緑色の液体が茶碗を満たしていった。


 「これは古沃の近郊で栽培されている茶なんですよ。父に送ってもらいました。決して高価ではありませんが、味がまろやかで人気があるんですよ」


 「へえ………」


 樹弘が茶を一口啜った。思わず、ああっと声が漏れた。


 「美味しいなぁ」


 樹弘の顔が綻んだ。ここ最近、景朱麗が見たことのないいい笑顔であった。


 「茶は味と香りで人を豊かにします。主上が贅沢を好まず、寸暇を惜しんで政務に励まれるのは臣下としては頭の下がる思いです。しかし、主上があまりにも楽しみを持たれないと、臣下をはじめ民衆達が心苦しく、贅沢ができなくなります。度が過ぎてもあれですが、多少は心休まる趣味や贅沢を覚えてください」


 田碧は空になった樹弘の茶碗に新たな茶を注いだ。樹弘は注がれた茶の水面を見ながら口を開いた。


 「僕は生まれてこの方、楽しみというものを得たことがないのかもしれない。物心ついた時には母の畑仕事を手伝い、母の死んでからのことは二人も知っているだろう。ふと思い返してみると、生きるために必死で、贅沢はおろか楽しみなことなど何一つなかったような気がする」


 今もそうだ、と樹弘は茶を啜った。


 「だから急に贅沢や楽しみと言われても正直困るんだよ。でも、いずれはそのようなものを見つけてみたいと思ったよ。それまで田碧の茶を楽しみにしたいな。また入れてくれるよね」


 「勿論です、主上」


 田碧は照れたように俯きながら答えた。その様子を見ていた景朱麗は居た堪れなくなってきた。


 『私はまた主上をお救いできなかった……』


 自分が樹弘にできるのは政治的に支えることだけなのか。そう考えると景朱麗は堪らなく悲しくなってきた。


 「田碧が茶が好きなのは分かったけど、朱麗さんは何か趣味とか好きなものはあるんですか?」


 樹弘に問われ、景朱麗ははっと顔を上げた。自分の趣味、好きなもの。そのようなことを考えたことなどなかった。特に相房の乱で泉春から逃げ出してからこの方、剣術を磨き、書物の読んで知識を蓄えてきた。そこに自己の享楽など微塵もなかった。


 「私も……ありませんね。お恥ずかしい限りですが……」


 「ははは。僕と同じですね」


 僕と同じ。その言葉に景朱麗は多少救われた。


 それから樹弘に相応しい趣味、景朱麗に相応しい趣味について談笑していると、甲朱関が顔を紅潮させながらこっちに来るのが見えた。


 「主上。お寛ぎのところ申し訳ありません。泉春の間者から至急の報せです。相史博が相宗如を討つために軍を発したそうです」


 樹弘の顔色がさっと変わった。


 「元亀様と蒼葉をここに」


 樹弘は短く言った。朝堂へ行く時間さえ惜しいといわんばかりであった。




 すぐに甲元亀と景蒼葉がやってきた。それを待っていたかのように甲朱関が詳報を語った。


 「相史博は翼公と会った相宗如に謀反の疑いを掛け、討伐の軍を派遣しました。その数は三万あまりと泉春周辺にいる戦力の全部と言っていいでしょう。これは泉春に攻めかかる絶好の好機です」


 いつも沈着な甲朱関が珍しく興奮していた。当然であろうと景朱麗は思った。これで労せず泉春を手中にすることができるのである。景朱麗も密かに興奮していた。


 しかし、当の樹弘は至って落ち着き払っていた。とても自分よりも年少の少年であるとは思えぬほどだと景朱麗は感じた。


 「泉春は攻めない」


 樹弘は静かに言った。


 「主上!このような好機を逃してはなりません」


 「朱関らしくない浅薄な思慮というものだ。仮に我らが泉春に攻めかかったとすれば、相史博は泉春にいる女性や子供、老人を兵とするだろう。僕にはそのような人々に剣を向けることはできない」


 甲朱関がはっと息を呑むのが分かった。それは景朱麗も同様であった。泉春を攻めれば、相史博は防衛のために無辜の民衆を脅迫してでも兵とするだろう。それと剣を交えるなど泉国の為政者となる者がすべきではないのは当然であった。


 「これは私の短慮でした。失礼しました」


 甲朱関はあっさりと引き下がった。その隣で甲元亀が満足そうに頷いていた。


 「しかし、主上。こうして我らを集めたということは何もせぬというわけではありますまい」


 甲元亀が試すように樹弘に問うた。


 「兵を出す。北上した相史博の軍を討つのだ」


 樹弘が意欲的に出兵を命じたのは、この時が始めてであった。

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