黄昏の泉~43~

 樹弘は静公のことをもっと年のいった厳格な男だと思っていた。一国の国主というものはそういうもであるという勝手に想像があった。しかし、実際に見た静公は年若かった。樹弘よりも数年程度年上といった感じであろう。さらに威厳や厳格さなど微塵も感じさせず、国主になったばかりで実績も何もない樹弘をいきなり対等に扱ってくれた。


 「まぁ座りたまえよ。堅苦しいのは苦手なんだ」


 そう言って静公は、謁見の間から庭へと樹弘を誘い、そこに東屋の一席を勧めた。庭先で語らうのは身分の上下をなくすという意味があることを、樹弘は後で景蒼葉から教わった。


 「お前さんのことは吉野に着いた時から聞いていたよ。小説みたいなことがあるんだと思ったが、どうやら我が国は他国の流浪国主を迎える縁があるらしい」


 侍女が運んできた茶を啜りながら、静公は物語るように言った。


 「それはどういうことですか?」


 「現在の翼公のことだ。あちらは二十年近く流離っていたことになるからな。お前さんはまだ早いほうだ」


 現在の翼公のことは樹弘も景蒼葉から色々と聞かされていた。後継者争いの末に翼国を脱出し、各国を二十年余りさすらった後、十年ほど前に翼国に帰り、国主となった人物である。


 「僕は翼公のような人物になれるでしょうか?」


 「さてね。翼公は名君と言われている。確かに他の連中に比べれば、ましな奴かもしれないが、俺に言わせればくわせ者だからな、あの爺さんは」


 現在、静国と翼国は表向き友好関係にある。しかし、現在の翼公が即位するまでは度々戦火を交える敵対関係にあった。翼公がかつて静国いたことと、現在は友好関係にあることは決して無関係ではないだろう


 「兎に角、静国は真主樹弘を全面的に支援する。まぁ、焦らぬことだ。時期が来るまでは、ゆっくり雌伏するがいい」


 もとよりそのつもりでいた。今の樹弘達はあまりにもか細い。しばらくは静国に潜伏し、来るべき好機までに準備をせねばならなかった。


 しかし、泉国で起こった思わぬ事態が風雲急を告げ、予定よりも早く樹弘を歴史の表舞台に押し上げることとなった。相房の片腕とされた相淵の死である。




 事が起こったのは年が改まった義王朝五百四十一年の一月のことであった。例年のとおり、新年祝賀の行事を終え、景政の謀反のことなど感じさせない日常を取り戻していた。だが、景政の乱以来、相房は朝議にめったに顔を出さないようになっていた。


 『すべては淵に任せる』


 と言って私室に籠もり、寵姫との酒宴に明け暮れていた。だが、一月が終わらんとするある日、相房は久しぶりに朝議に姿を見せた。そして、いきなり遷都をすると言い出したのであった。


 これには相淵をはじめとした延臣は驚かさせた。国内に反乱や民衆の武装蜂起が相次ぐ中、多額の国費を必要とする遷都などできるはずもなかった。


 「お待ちください、主上。それはご再考ください」


 相淵は決して民衆と寄り添うような慈悲のある有徳な宰相ではなかった。しかし、相房の近親者の中では良識のある政治家とさせており、相房の直言できる数少ない人物であった。


 「現在、国内では不逞の輩が主上に叛旗を翻し、それを鎮圧するための戦費が嵩んでおります。また、景秀が脱獄したとなればさらに大きな騒擾にも警戒せねばなりません。今はその備えをすべきです」


 相房の横暴で国民が疲弊しているので、これ以上余計な負担を課すべきではない。それが相淵の本心であったが、流石に口をつぐんだ。


 「余は泉春にいたくないのだ」


 相房は枯れた声で言った。明らかに相房の生気が失せていた。


 『景政を失ったことがそれほど衝撃だったのか……』


 相淵は己の認識の甘さを悔いた。景政の反乱と死は、相房に負の影響を与えたのは間違いないと思っていたが、子供のような理由で遷都を言い出すとは想像もしていなかった。


 「主上」


 相淵は相房が退出しようとしたので、後を追った。


 「主上。ご再考ください。この時節に、何故遷都が必要なのですか?」


 歩きながら相淵は問うた。このような無礼は相淵以外では決して認められないことであった。


 「言ったはずだ。泉春にいたくないのだ」


 「その理由をお聞きしているのです」


 相房が睨みつけてきた。しかし、その眼光には鋭さはなかった。


 「余は疲れたのだ。泉春には世上の塵芥が多すぎる」


 現実から目を背けようとしているのか。それは国主としてあまりにも無責任すぎる。真主であった泉弁を斬ってまで国主の地位を手に入れたのは何であったのか。相淵は身勝手な兄に多少の怒りを覚えた。


 「主上。国主たるお方が国難にあってそのような御姿勢では国は保てません。今でこそ静観しておりますが、静国や翼国、あるいは伯がよからぬことを考えてもおかしくありません。今こそ主上が前面に立って国内の混乱を収め、毅然とした国体を形成すべきです」


 「ならば淵が国主となるか?」


 「主上!お戯れを……」


 「遷都の件、閣僚と取り計らえ」


 そう言い残し、相房は私室へと消えていった。それを待っていたように侍女が酒樽と山のように盛られた料理を運び入れ、相房の美姫達がそれに続いた。ここ最近、相房の酒量が増えているという。悪しき傾向である。


 「このままでは相家は滅びる。後を継ぐ者も凡才とあれば国家も滅びる。相家は滅びても良いかもしれんが、国家が滅びては社稷を築き上げた父祖に申し訳が立たない」


 相淵は手を仰いで嘆息した。あるいは自分が国主となるべきなのか。一瞬そのように考えてしまったが、すぐに打ち消した。

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