黄昏の泉~42~
樹弘は泉国の国主となった。しかし、それはあくまでも自称の域を出ず、実際に泉国を実効支配しているのは相房であり、樹弘は一寸の田畑を持たぬ流浪の国主でしかなかった。
「ですが、神器を持った真主であることには間違いないのです。ここは静公にお目にかかり、泉国の真主であることを認めていただこうと思うのです」
景朱麗は主だった顔ぶれを集めて提案した。
「そういうことでしたら打って付けの使者がいます。朱関、頼むぞ」
甲元亀が隣に座っている孫の肩を叩いた。それまで話を聞いていたのかどうか分からぬ風であった甲朱関の顔が歪んだ。
「爺様。勘弁してください。もう私はあの男と関わりたくないんですよ」
あの男とは静公のことだろうか。一国の国主をあの男呼ばわりするとは甲朱関と静公はどういう関係なのだろう。
「朱関は、静公とは親しいのですか?」
「いえ、主上。親しくありません。私はあんな人使いの荒い男のことなんか知りませんよ」
いまひとつ事情が飲み込めない樹弘は甲元亀に視線を向けた。
「孫は静国に亡命中、静公の客としてお仕えしていたのです」
相房の乱の後、多くの泉国の遺臣が静国に亡命した。甲朱関の父もそのうちの一人であったという。ちなみに甲朱関の父は数年前に病死したのことである。
「そう言えば、どうして元亀様は亡命しなかったのですか?」
「儂までが逃げては、遺臣を受け入れた静国に迷惑がかかりますからな。まぁ、要するに一種の囮となっていたのです」
それよりも静公と甲朱関のことである。静国に亡命した当初は幼年であった甲朱関も長じると静公の身辺に侍るようになった。何事もそつなくこなしていたが、取り立てて目立つこともなかった。そんな甲朱関が静公の覚え目出度くなったのは戦場での活躍であった。
「戦場で?」
樹弘はまじまじと甲朱関を見た。お世辞にも戦場で槍働きをできる体躯ではなかった。
「こやつの場合は頭脳ですよ」
甲元亀は孫の頭を指差した。
この時期、静国は隣国の条国と敵対関係にあり、度々戦火を交えていた。ちなみに条国は仮国であり、原始の七国である斎国から国号を奪った国である。余談ながら静国は土壌が豊かで作物がよく育つ土地柄なので度々隣国から狙われていた。現在の翼公が即位するまでは翼国に度々国境を侵され、これが条国に替わったというわけである。静国とずっと友好関係を続けているのは泉国ぐらいであった。
さて、静公の近習として戦場に出た甲朱関は、軍事参謀として的確に戦場の推移を読み取り、静公に適切な助言をして数々の戦場で勝利に貢献してきた。そのため事あるごとに甲朱関は戦場に借り出され、半年近く吉野に帰れないこともしばしばあったという。
「それが心強いですね」
樹弘は思わず声に出してしまった。これからのことを考えれば間違いなく相房の軍と矛を交えることになる。そのためにも軍事的な才能をもった人物はどうしても必要であった。
樹弘自身は気づいていなかったが、樹弘にも異才とも言うべきものがあった。それは人の才を見抜き、適所に置くことであった。この時すでに樹弘はある程度の人事を決めていた。景朱麗と甲朱関を両脇に置いて政治と軍事を任せ、甲元亀には後方で補給面を担当させる。すでにそこまでのことを一人で考えていた。
「勿論、我が主のためなら粉骨砕身、寝る間も惜しんで働きます。しかし、過度な期待はなさらないでください。軍事なんてものは水物ですし、いつ私の才能が枯渇するか分かったものではありませんから」
樹弘は甲朱関の謙虚な姿勢が気に入った。謙虚な人間は事に及んで大きな過ちは犯さないだろう。
「分かっていますよ。でもひとまずは、静公への使者をお願いします。そのぐらいは簡単でしょう?」
樹弘がそう言うと、甲朱関は困ったように顔を顰めながらも、観念したように引き受けた。
翌日、甲朱関は静公に面会し、樹弘が正式に泉国の真主となる決意をしたことを告げた。すでに樹弘達が吉野に到着した時点で、静公には樹弘の存在を伝えられていたので、話は早かった。静公はすぐに樹弘に会うと言ってくれた。
その日の夜、樹弘は礼服に着替え、静公のいる平泉宮へと赴いた。供は甲元亀、甲朱関、そして景朱麗のみ。謁見の間に入った樹弘は、供の三人を後ろに控えさせ静公は来るのを待った。間もなく静公が入ってくると、樹弘は甲元亀から教えられたとおり、膝を突き、深く叩頭した。
「待った待った。お互い真主という立場なんだから、そういう挨拶は抜きだ」
樹弘が一連の動作を終えないうちに、上座から妙に明るい声が降ってきた。驚いた樹弘であったが、ここで顔を上げるのは礼を失することになるので、頭を下げたままでいると、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「顔を上げるんだ、泉公。お前はもう国主なんだぜ。卑屈さは時として相手を不快にさせるだけだからな」
静公が樹弘の頬を両手で挟み顔を上げさせた。若い男が満面の笑みで浮かべていた。
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