黄昏の泉~41~

 景秀が死んだ。これで人の死に直面したのは何度目であろうか。樹弘はそう思うとやりきれない気持ちで一杯であった。


 『特にここ来て目まぐるしい……』


 母の死に始まり、厳陶、そして景政と景晋。それぞれにそれぞれの死があり、目の当たりにしてきた。その度に様々な感慨を生んできたが、景秀の死はどう捉えていいのか、樹弘は分からずにいた。


 現在、屋敷の中では親族だけによる服喪の儀式が行われている。樹弘は邪魔にならぬように庭に出てぼんやりと月を眺めていた。


 『泉国と泉国の民を頼むか』


 これほど重い遺言はないであろう。まだ国主としての自覚もなければ、その覚悟もない樹弘にはあまりにも強大であった。いや、景秀だけではない。景政も景晋も、樹弘が真主であること見届けて死んでいった。きっと泉国とその民の将来を樹弘に託したことだろう。


 「でも、そんな責任を僕に押し付けられても……」


 樹弘が神器を使いこなせる真主であることは間違いない。そして甲朱関の話が本当だとするなら樹弘は泉家の血を引いているのだろう。だが、樹弘はそのようなことを知らずに市井で生きてきた。国主に相応しい学もなければ器量もない。そんなことで国家と臣民を治められるはずもなかった。


 『このまま去るか……』


 と考えないでもなかった。しかし、それは逃げているようであり、男児としての矜持が許せなかった。それに死者の遺言だけではない。生者との縁も樹弘を束縛していた。


 「ここにいたか……」


 振り返ると景朱麗が立っていた。漆黒の礼服で身を整えた景朱麗は、赤い髪を束ねていた。不謹慎ながらいつもより女性としての美しさを増しているように思えた。


 「朱麗様。儀式は?」


 「終わった。儀式なんて形式的なものだけど、やれるだけ幸せなのかもしれないな」


 景朱麗は何も言わず、樹弘の隣に座った。


 「父は丞相であったのはわずかに三年であった。執政としての器量を問われる間もなく、相房によって十五年も幽閉された」


 改めて景秀の後半生を思うと、壮絶であり、恵まれたものではなかった。樹弘がそう口にすると、景朱麗は首を振った。


 「幸せかどうかの判断は本人しか分からない。でも、父上はやはり幸せだったのかもしれない。最後に真主に会え、儀式をもって送られたのだから。それに対して景政と景晋はどうだったのだろう。さっきまでずっとそのことを考えていた」


 景朱麗が父である景秀の服喪の儀式に、目の敵にしていた景政のことを考えていたとは意外であった。しかし、その気持ちは樹弘にも痛いほど理解できた。


 「あの二人は私達を逃がすために戦死し、首も晒された。残った景弱は恨み言をひとつも言わず、逆に父上を丁重に見送ってくれた。私は言葉がなかったよ」


 景朱麗の言葉に芯があった。そこには父の死を乗り越え、景家の当主としての覚悟が見て取れた。


 「生者は死者に縛られる必要はない。しかし、死者の思いは受け継がねばならないし、生者のためにもやらねばならぬことがある」


 景朱麗はそう言い終ると、樹弘の方に体を向けて伏して頭を垂れた。それは臣下が主に対して取る態度であった。


 「しゅ、朱麗様!」


 「もはやあなたのことを樹君とは呼べない。私も主上と呼ぶ。だから、我等の主となって欲しい!」


 「そういう言い方は卑怯ですよ。朱麗様」


 「湖畔であなたが国主となり、私がその丞相となると言った。勿論冗談のつもりであったが、今は冗談ではない。卑怯と言われても構わない。頼む!国主となって欲しい!」


 歴史上、臣下から国主となることを求められた人物は少なくない。しかし、それらは多分に儀式的なものであり、一人の臣下からここまで熱烈に懇願されたのは樹弘だけであったかもしれない。


 樹弘にはもはや逃げ場なかった。彼らと共にいる以上、景朱麗の懇願から逃れることはできないし、彼らか逃げ出すと樹弘はまた一人で生きていかなければならない。あの娼窟にいけば雇ってもらえるかもしれないが、それ以上に景朱麗達への情愛が樹弘の足に絡みつき、動けなくしていた。


 『僕も覚悟を決めるしかない……』


 樹弘は身をかがめ、平伏している景朱麗の手を取った。


 「朱麗様。顔を上げてください。そういう格好は似合わないですよ。仮にも一国の丞相となろうというお方がなさけないですよ」


 景朱麗が顔を上げた。


 「朱麗様が覚悟を決めたのなら、僕も覚悟を決めます。どこまで僕にできるか分かりませんが、よく支えてください」


 「樹君……。いえ、主上。勿論でございます。これよりは朱麗とお呼びとなり、臣下としてお使いください」


 「難しいな、それは……」


 樹弘は景朱麗の手を引っ張って立たせた。


 「屋敷に皆を集めてください。皆は僕のことをすでに主上と言っているけど、一応はっきりとしておきましょう」


 それが樹弘の初めての命令となった。




 景秀が眠る部屋に一同は集められた。その顔ぶれは、景朱麗、景蒼葉、景黄鈴、甲元亀、甲朱関、景弱、そして無宇。彼らの従僕も加えれば三十名ほどしかいない。後のことを思えばまことに心細い人数であったが、この時の樹弘からすれば十分過ぎるほどであった。


 「皆に集まってもらったのは他でもない。樹君……いや樹弘様が我等が主となることを決意された」


 景朱麗が宣言した。一同は樹弘と景朱麗が揃って部屋に入って来た時から何事か察していたのだろう。驚きの声ひとつあがらず、樹弘に向かって叩頭した。


 「亡くなった景秀、景政、景晋の思い。そして皆の思いに僕は応えたい。不肖の身だから、皆の助けがいる。よろしく頼みます」


 樹弘自身も叩頭した。お互いに礼を示した主従関係というものは、中原の歴史でもおそらく初めてのことであったろう。


 「立場上、僕は皆の主となるわけだが、扱いについてはこれまで通りにして欲しい。食べる物も寝る所も皆と一緒で構いません。いや、寧ろそうして欲しい」


 「主の仰せのままに」


 代表するかのように景朱麗が言った。その隣で甲元亀が、


 「我らは良き主を得た」


 と感慨深げに呟いた。

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