黄昏の泉~44~

 ここに一人の男が現われる。切恒という。太子史博の近臣である。補佐役と言ってもいい。相史博がこれまで目立った功績をあげておらず、しかもこの前の景政の乱の時に失態を演じたということもあって焦りを感じていた。


 『このままでは史博様が太子ではなくなってしまう……』


 次弟の相季瑞は史博と同等か、あるいはそれ以下の凡才であり、やはり功績はない。さらに言えば景政の乱でも同じく失態を犯している。そうなれば有力なのは末弟の相宗如である。


 相宗如の評判は高い。北方にあって翼国に備えており、その兵は精強で、民をよく治めているという。宮廷だけではなく、庶民からの声望も得ている。相史博を廃嫡し、相宗如が太子となるべきだという声も公然と囁かれるようになっていた。


 『折角北方に追いやったのに、これでは意味がない』


 どうすべきかと思案をしている矢先、切恒はたまたま相房の私室の前で嘆息する相淵の言葉を影から盗み聞いたのであった。


 『これはまずい……』


 もし相淵がその気になれば相房からの禅譲がありえるかもしれない。そうなれば、相史博に国主の座は永遠に回ってこないであろう。だが、これは好機でもあった。相淵の言は明らかに相房への批判であり、不敬であった。切恒はすぐに洗いざらいを相史博に告げた。


 「おのれ丞相!ぶっ殺してやる!」


 相史博が激怒したのは言うまでもない。彼は今すぐにでも剣をあげて相淵を斬りに行く勢いであった。


 「お待ちください、太子。太子が剣を振るわずとも有効な手法がございます」


 切恒はすでに手を打っていた。相房の寵姫から誣告させるのであった。


 この頃、相房の寵姫に秋姫という女性がいた。実はこの秋姫、切恒が相房の後宮に入れたのである。建前上、切恒の遠縁の娘となっているが、素性は定かではない。しかし、肉付きのいい体は相房の琴線に触れ、寵姫の一人に入った。


 その秋姫が閨房で相房に囁いたのであった。


 「丞相は主の戯言を真に受けて自らが国主とならんとしています。そうでなければ、泉国も相家も滅びると申しているのです」


 これまでの相房ならば、寵姫からの誣告など取り上げなかっただろう。だが、この時の相房はかつての相房ではなかった。秋姫からの誣告を信じ、


 「丞相に片刃の剣を持たせよ」


 と命じた。要するに自裁せよ、ということであった。


 相房からの使者を受けた相淵は、一瞬顔を青ざめさせたが、抗うことはなかった。


 『誰かが私の独り言を聞いて、主上に誣告したな……』


 それが誰であるかを推測する気力は相淵にはなかった。あるいは相房に無実を訴えたとしても、今の相房はおそらく耳を貸さないだろう。


 「世上の塵芥に厭しているのは私の方であったか。ここで死せば、これ以上の穢れを目にしなくても済む。それはあるいは幸運かもしれない」


 相淵は剣を相房から賜った片刃の剣を自らの首に押し当て自裁して果てた。相家唯一の良識が消滅したのであった。




 相淵の死の情報をもたらしたのは田碧であった。彼女は甲元亀達を吉野に送り届けた後、泉国に戻って諜報活動を続けていた。田碧は相淵の死だけではなく、別の情報も携えていた。


 「古沃が暴発しそうです」


 今にも民衆が蜂起しそうだと言うのである。これには相淵の死と無関係ではなかった。


 相淵の死後、丞相の地位に着いたのは相史博であった。この事実は、相史博が相淵を謀殺したことを公然としたようなものであり、これに危機感を募らせたのは次弟の相季瑞であった。


 『自分も淵丞相のように謀殺されるかもしれない……』


 目下、相房の後継者として相史博の対抗馬となるのは自分しかない、と相季瑞は思っていた。そうなると、次に排除されるのは他ならぬ自分自身である、というある種の妄想を抱くようになっていた。相季瑞はどうすべきか近臣に諮った。


 「季瑞様のご懸念は尤もです。ここはひとつ泉春からお出になり、離れた地で力を蓄え捲土重来をお待ちください」


 そう進言したのは近臣の石不であった。相季瑞は石不の進言に従い、丞相となったばかりの相史博に請うた。


 「丞相。私は国家の要職にあって未だに目立った功績がありません。ぜひ南方にあって国家の鎮護に努めたいと思います」


 相史博からすれば、相季瑞からの申し出に驚きはしたが同時に、


 『季瑞は俺を恐れている……』


 これが権力というものかと、己が得た地位に酔いしれた相史博はこれを許した。こうして相季瑞は古沃に赴くことになった。


 古沃に到着した相季瑞は、近隣の集落から若者達を根こそぎ徴兵した。すでに南方には相蓮子がおり、これに対抗するためであった。必然的には農作業を始めてとする産業の働き手が枯渇し、当然の如く怨嗟の声があがった。


 「不満分子を焚き付けているのは兄上ですが、それを差し引いても相季瑞は人気がありません」


 「田員は無事だったのですか?」


 「はい、主上。今では逆に不満分子を押さえようとしています」


 ともかくも相季瑞という人物は人望がなかった。古沃に来てまだ一ヶ月も経っていないのに、この不人気はやはり人格的に問題があるのだろう。


 「相蓮子は峻烈な性格をしていますが、条理の分からぬ人物ではありませんでした。それに兵士達には人気がありました。ですから、相季瑞の配下に編入させられた兵士の中にはあからさまに不満を漏らしている者達もいるとのこです」


 田碧の話を聞いている限りでは古沃は革命前夜のような様相がある。これを利用しない手はないのではないか。樹弘ですらそう思えていた。


 「季瑞が来たことでの蓮子の反応はどうです?」


 「漏れ聞いたところでは、あまり反応はしてないようです」


 甲朱関の質問に田碧が端的に答えた。樹弘はそれを聞きながら相蓮子らしいと思った。きっと相蓮子は相季瑞のことなど歯牙にもかけていないだろう。


 「主上。静公は数年雌伏すべきと言っていましたが、これは好機かと存じます。ご決断ください」


 代表するように景朱麗が言った。樹弘としても異論はなかった。


 「やりましょう。今は田員が抑えているとはいえ、古沃はいずれ暴発する。そうなった場合、彼らを放っておくことはできない」


 樹弘が宣言すると、景朱麗達は立ち上がって樹弘に対して叩頭した。泉国の真主樹弘が歴史の表舞台にあがった最初の瞬間であった。

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