黄昏の泉~32~

 五日後、宣告どおり夜半に景晋が無宇を連れてやってきた。


 「まずはこれにお着替えください」


 無宇が皮袋から取り出したのはなめし革の鎧であった。二人分あり、樹弘と景朱麗はそれに着替えた。無宇も同じ鎧を着ていた。鎧姿の景朱麗は、さながら美丈夫の武人のようであり、違和感はまるでなかった。


 「では、参りましょう」


 二人が着替え終わると、無宇が先導して泉春宮に向かった。


 夜ということもあり、人通りはほとんどなかった。無宇があえて人気の少ない道を選んでいるということもあり、樹弘達は誰からも誰何されることなく、泉春宮付近まで辿り着くことができた。


 その道中、景朱麗はずっと不機嫌であった。樹弘が訳を聞くと、景朱麗が囁くように言った。


 「父上を助け出すことを思いついたが、私自身は何もできていない。今回もすべて景政と景晋がお膳立てをしてくれているし、そもそも父上の居場所が判明したのは樹君のお手柄だ」


 私は何もしていない、と景朱麗は無念を滲ませるように繰り返した。


 「それは朱麗様に徳があられるからですよ」


 樹弘は本気でそう言ったのだが、景朱麗は自嘲するように鼻で笑った。


 「元亀様と景政が気脈を通じていることも知らなかったんだ。徳なんてあるもんか」


 「朱麗様。今はそのようなお話をおやめください。大事の前です。気が病むようなまねはなさらないでください」


 樹弘はぴしゃりと言った。景秀の救出という難事を前にして、消極的な思考は行動に負の効果をもたらしかねない。樹弘はそれを危惧したのであった。


 「そうだな……。樹君には色々と教えられる。ありがとう。今は父上の救出のことだけを考えよう」


 景朱麗は表情を引き締めた。それでこそ景朱麗だと樹弘は思った。




 泉春宮は泉春の最も北に位置し、大きく東西南北の四つの区画に分かれている。そのうち北面は城壁に面しているため警備が少なかった。その北面に一箇所だけ門がある。泉春宮で発生した肥を外に出す時に使われる門で、二日か三日に一度しか開くことがなかった。自然、警備は手薄であった。


 「明日の早朝に肥が搬出されます。その前夜は門前に肥が集まっているので、警備兵はよくさぼります」


 無宇は淡々と解説した。北門に近づくと鼻が曲がりそうなほどの悪臭がしてきたが、確かに警備兵はいなさそうであった。


 「敵ながらたるんでいるな」


 「泉春宮の警備兵も前線に借り出されています。どこもかしこも手薄です」


 無宇は周囲を警戒することなく門に近づき、手馴れた手つきで鍵をあけた。樹弘と景朱麗が後に続いた。鼻を摘んでみたが、樹弘は二三度嗚咽を漏らした。


 北門から離れ、まっすぐに西の監視塔に向かう。樹弘はふと監視塔を見たが、灯りも点っておらず兵士の姿も見えなかった。


 「無宇さん」


 樹弘は先頭を行く無宇に声をかけた。無宇は振り向いた。年齢の分からぬ顔であった。


 「無宇で結構でございます。樹弘様」


 無宇は謙るが、他人から様付けされるのはどうにも違和感があった。


 「監視塔にも人がいませんね」


 「そこも借り出されているようです。監視塔はどこも機能していません」


 ただ西には警備兵がおります、と無宇は声を潜めた。監視塔の入り口に鎧を着た警備兵が二人いた。


 「父上がいるからか……」


 「左様でしょう。ここは私と樹弘様で。樹弘様は左側を」


 「分かった。でも、殺さないように」


 樹弘は生まれて初めて人に命令したように思えた。無宇は驚いたように目を丸くしたが、承知しましたと応えた。樹弘と無宇は並んで歩き出した。樹弘は背負っている剣を掴んだ。


 『頼むぞ』


 樹弘は心で剣に語りかけた。承知しました、と女性の声が脳裏に響いた。


 「お、交替か?まだ早いぞ」


 門番の一人がこちらを向いた。その瞬間、無宇は駆け出した。無宇は門番の鳩尾に拳をぶつけた。門番の一人は声を発する前に気絶し倒れた。


 残る門番は声を上げようとしたが、その前に樹弘は鞘に入れたままの剣の先で鳩尾を突き気絶させた。


 「お見事です」


 無宇はそう言いながら、倒れている二人の門番の手と足を拘束し、口には猿轡をかませた。そして門番が腰にぶら下げていた鍵を奪うと、それで監視塔の戸を開けた。


 「さて参りましょう。この下におられるはずです」


 無宇は迷うことなく地下へと続く階段を下りていった。

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