赤帽子

安良巻祐介

 

 赤帽子が一人、崩れた古い城跡で寝起きと煮炊きをして暮らしていた。

 彼はすっかり痩せこけ、皺も無数に増えてすっかり老け込み、背も曲がっていた。愛用の斧もすっかり錆びついて、今では薪を切る時と、兎の肉を分ける時くらいにしか使わなくなっていた。

 かつては城の住人や訪れる客を襲って食ったりもしていた彼だが、名跡となったわけでもない小さな城は、もはや人間たちから見捨てられた一角となっており、彼自身もまた、その一部だった。

 あれほど恐ろしくてたまらなかった聖書とロザリオが、心の慰みとなったのは、いつからだったろう、と、乾燥肉と香草を壁に提げながら、彼は考える。

 城には時計も暦もないから、今がいつで、どれだけの時が経ったのか、計る手段がない。そもそも、彼ら妖精に本来、時間など意味をなさないものだ。

 いつから、というようなことを考えていること自体、赤帽子がもはや妖精としてもおかしくなっていることの証左だった。

「汝の隣人を愛せよ」

 血の跡が黒く固まり、紙も劣化して黄ばんだ聖書の一頁に書かれた言葉を暗唱して、彼はいつも溜息をついた。

 耳に、壁の裏を走り回るネズミの足音が聞こえる。あれが喋れたら、どんなに良いか。今はもっぱら料理の材料となっている兎にしても、昔は普通に口が利けたはずだ。

 赤帽子が変わったのと同じように、いつからか獣たちは、話すことはおろか、心のある所作を示すことすらやめていた。

 その事が、彼の一時期抱いていた、兎専門の妖精となろうという一大計画を水泡に帰せしめたのである。

 彼の遠い同族がやっていたように、草木に話しかけるという手もあったが、何となく、それらも獣と同じになっているだろうという、悲しい確信があった。

 赤帽子は首にかけた、色褪せのロザリオを大事そうに扱いながら、今でも少し目に痛い聖書を、毎晩めくっては、そこに書かれている人の言葉に涙した。

 ほとんどの意味は分からないながら、それがとにかく、孤独に寄り添う言葉である事だけは、赤帽子にも分かったのだ。

 自分のような妖精は、悪魔や悪人と同じく、「地獄」というのが本来の住処らしいというのは、数少ない、理解できた事柄であったが、自分はいつになったらそこへ行けるのだろうと思った。悪いものでひしめいているそんな場所は、どんなに愉快な事だろうと思った。

 そこではもしかしたら、鈍った斧の腕も元に戻すことができるかもしれないし、昔のように鮮やかな人の血で、この帽子を染め直すこともできるかもしれない。

 けれど、それも、希望的観測でしかなかった。

 赤帽子は、唯一残ったホオル跡の窓枠の向こうに月が見える晩にはいつも、瓦礫の上に腰をかけて、月を見上げ、さめざめと泣いた。

 城を出て里に行く、という選択肢は、悲しいかな、この老いた哀れな妖精にはなかった。

 本当に、彼は、この城の一部だったのだ。

 或いは、城が壊れた時に、彼もまた壊れてしまって、ずっとそのままなのかもしれない。

 兎の血を絞ったつまらない赤で帽子を洗いながら、彼は、水たまりに自分の顔を映しながら、また溜息をついた。

 この恐ろしい境遇は、いつまで続くのだろう。

 時間だけを永久に与えられ、何もないまま、聖書を読み続ける日々。或いは、これは、何かしらの罰なのであろうか。罪という事も、聖書を読むことで、幾らかはわかったような気もするし、やっぱりわからないようでもあった。

「人の生くるはパンのみによるにあらず」

 ならば、妖精は、何によって生かされているのだろう。今のこの自分は、果たして本当に生きていると言えるのだろうか。

「求めよ、さらば与えられん」

 しかし、自分には、何を求めればいいのかも、本当のところ、もはやよくわからないのだ。城に人がまた訪れればいいのか? 「地獄」を求めればいいのか? 何が正解かわからないから、結局いつまでも動けない。

「正しい者は七たび転びてもまた必ず起き上がる」

 では、正しくない者は。それにもう、自分は起き上がりたくない、と彼は思った。


 僕の手に入れた、その古い、出所のわからない本は、その後、幾つかの彼の些末な日常を記した後、唐突に終わっている。

 どれくらいか時間の経った頃、聖書にあった「自殺」の概念をようやく理解した赤帽子が、壁に立てかけた自分の斧の方を見やった…というのが、最後の記述である。

 しかし、果たしてそれが成功したのか、それどころか彼が本当にそれを救いとして選んだかも、書かれていない。

 ただわかっている事は、彼の棲む城の名前が、もはや、どこにも、記されていないということばかりである。…

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赤帽子 安良巻祐介 @aramaki88

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