蠍座トレーサビリティ

Gashin-K

第1話

 一羽の兎が、荒野にいた。辺りが青色に染まる夜の砂漠。凍えるような静けさの中、兎は、地平線から登る巨大な月を見詰めていた。

 兎は何日も何日も、荒野を歩き続けていた。噂には聞いていたが、その過酷さが今では身に染みていた。歩けど歩けど地平線は終わらず、月との距離も一向に縮んでいく様子がない。引き返そうにも、もうどの方角から来たかも分からなくなっていた。途方に暮れるとは、こういう状態をいうのだろうか。兎はそう思うと、大きな石の上に腰を下ろした。このままこの荒野で死んでいく。こうなる可能性は十分覚悟していたが、いざ直面した時の恐ろしさは、兎の想像をはるかに超えていた。

「兎さん。あの月に行きたいのかい?」

 恐怖と寒さに震える兎の足元で声がした。小さな蠍が語り掛けていた。

「俺の名はアセチル。どうなんだい? 月に行きたいの?」

 兎は黙って頷いた。

「じゃあ月ばっかり見詰めてたんじゃ、到底無理だよ」

「あんた、行く道を知ってるのか?」

「俺は知らないけど、知ってる奴を知ってる。そいつに会わせてあげるよ」

「そいつはありがたい。もう終わりだと思ってたところなんだ。是非とも会わせてほしい」

「いいとも。ついてきな」

 アセチルはそう言うと、月とは反対の方向へ進み出した。兎も腰を上げ、蠍の行く方へと歩いて行った。

 兎はようやく見えた希望を見失わないよう、必死に蠍の後を追った。長い旅路で足の肉球は剥がれ、一歩一歩に痛みが走った。空腹と渇き、昼夜の寒暖差が奪った体力はもはや限界に達していた。これが最後の力と信じて、兎は希望に縋った。

 どれくらい歩いただろうか。月は沈み、夜は明けた。照り付けだした太陽に、兎は考えることを止めていた。そして、夜通し歩き充血した目に、突然、大きな灰色の建物が飛び込んできた。

「着いたぞ」アセチルが言った。「ここにそいつが居る」

 兎は建物を見た。周囲一面に地平線が広がる荒野にぽつんと置かれた四角い建造物は、まるで蜃気楼のように聳え立っていた。そして不思議なことに、窓らしき横穴が一つも見当たらない。中では何が行われているのか、外からでは見当がつかなかった。

「じゃあ俺はここで」

「なんだよ、ここまで連れてきておいて説明も無しかよ」

「俺にも用事があるんだよ。入ればわかるさ」

「入って、一体誰と会えばいいんだよ?」

「スーツを着たハイエナだ」

「え……」

「あばよ」アセチルは悠然と去っていく。「ああ、あと、青い蠍には気をつけろ。毒盛られるからな」

「ちょっと待ってくれ! どういう意味なんだ!」

 アセチルはそのまま行ってしまった。兎は立ち眩みを覚え、瞬きを何度もした。満身創痍の体に、他の選択肢を探す余裕はなかった。

 兎は建物の中へと入った。中には、まっすぐに伸びる廊下があった。無数の扉が両側の壁に列をなして並び、その空間は無限に奥へと続いていた。兎は蠍に言われた言葉が頭から離れず、不安を募らせた。

「怖がることはない」

 兎は後ろからの声にビクッとし、振り返るとそこにハイエナが立っていた。蠍が言っていたハイエナだろうか、たしかにネクタイを締めてきちんとした紳士の恰好をしている。兎は恐怖のあまり全身を硬直させた。

「大丈夫。君を捕食しようなんて思ってない。君には大事な役目があるからね」

「役目? 僕はさっきここに来たばかりだが?」

「蠍に連れられて来たんだろ。赤い奴に」

「そうだが……」

「じゃあ役目は与えられた。君の部屋を用意してあるから、そこまで案内するよ」

 ハイエナは廊下を進もうと歩き出したが、兎の不安は増すばかりだった。

「待て。ここに来れば月の行き方を教えてもらえるって聞いたんだ。あんたが知っているのか?」

「教えてもらえる? 蠍はそう言ったのか?」

 ハイエナは不思議そうに兎を見た。兎は言葉に語弊があったことに気が付いた。

「そうは言ってなかった。知っている者に会わすと言っていた」

「そうだろうな。赤蠍は理屈やだ。何を言うにしても、可能性の不十分なことは口にしない」

「それなら、スーツを着たハイエナと会え、とも言われた」

「それなら、もう会った。私のことだ。そして私は月の行き方を知っている」

「じゃあ教えてくれ。その為にここまで来たんだ」

 ハイエナは少し軽蔑したような目で兎を見た。兎はその場にしゃがみ込み、教えて貰うまでは食べられても動かない覚悟を示した。どのみち、生きようとする為の体力は殆ど残されていなかった。

「見せたいものがある」ハイエナはやれやれといった様子で言った。「月に行く方法だ」

 ハイエナは廊下を進んでいった。兎も立ち上がり、後を追った。

 永遠と続く廊下には、どんなに進めど突き当りは見えてこなかった。左右に並ぶ扉を何枚も通り過ぎていった。どの扉にもドアノブしか付いていない。ある所で兎は、扉の一つ一つに番号が書かれていることに気が付いた。

 ……132。……133。……134。…………。

 ハイエナは、140と書かれた扉の前で立ち止まった。

「君の部屋だ。中には君と同じように月に行くことを望む仲間がいるから、彼らに教えてもらえ」

「この番号の意味は?」疑心暗鬼の兎は、すぐに入ろうとしなかった。

 ハイエナは扉を見詰めたままポツリと答えた。「君の、トレーサビリティ……」

 その直後、ハイエナは兎の首根っこを掴み上げ、勢いよく扉を開け、兎を中へ投げ込んだ。殆ど抵抗できずに放り込まれた兎の耳に、扉が閉められ音が聞こえた。

 一瞬の出来事の後、兎の視界は完全な暗闇に陥った。しかし目は開いている。その部屋が真っ暗だと気付くのに時間は掛からなかった。自分の手足も見えない完全な闇の中で、兎はしばらく動くことができなかった。

 次第に目が慣れ始め、少し離れた位置に、誰かがいる気配を感じた。

「そこに誰かいるのか?」兎は気配のする方へ向かって声を出した。

 すると、気配とは別の方向から声が返ってきた。

「そっちにいる奴に話しかけても無駄だよ。もう、しゃべれないから」

 兎は部屋の中に、他にも生き物が2~3匹いるのを感じた。誰でもいいから話したかった。暗闇の中で全員に聞こえるよう、その場で大声で話した。

「蠍に連れられてここに来た。ハイエナにこの部屋へ放り込まれた。ここで月に行く方法を聞けと言われた。一体、ここは何なんだ?」

「頼むから大声ださないでくれ。耳が痛いんだ」また別の方向から声が返ってきた。「もうすぐ君もわかるから、静かにしといてくれ」

 そう言われ、兎は横になり、そのまま眠ることにした。これまでの旅の疲労は、あっという間に兎を深い眠りへと沈めていった。


 僕は、また荒野を歩いていた。今夜も地平線から巨大な月が昇る。辺りが青色に染まる、いつもの静かな荒野の夜だった。

 途中、妖艶な牛と出会った。牛は豊かな乳房を露呈させていたので、僕は言った。

「きれいなイヤリングだね」

「うれしい。そっちを誉めてくれるなんて」

「おっぱいもステキだよ」

「ありがとう。でももう、乳が枯れちゃったの」

「子供たちに与えすぎたんだね」

「子供はいないの。沢山産んだけど、みんなすぐに行っちゃった」

「どこへ?」

「月へ」

「それはよかったね」

「ええ。自慢の子供たちよ。そして、私もついに行くことになったわ」

「へ~、それは凄い。うらやましいなぁ」

「ふふ、あなたもきっと貰えるわよ」

 妖艶な牛は、色っぽく耳元の髪をかき分け、イヤリングを見せてくれた。十個の番号の羅列が見えた。

「そろそろアタシも並ばないと。じゃあね」

 そういうと妖艶な牛は走って行った。その先には、大勢の牛たちが長蛇の列を成していた。その向かう先には、見覚えのある四角い建造物が蜃気楼のように聳え立っており、牛たちの列が吸い込まれていった。

 荒野を歩き続けた。オアシスがあった。湖畔の木に、美しいビーグルの犬が麻縄で縛り付けられていたので、僕は訪ねた。

「お困りかい、お嬢さん。望むなら、僕の前歯でその縄を噛み切ることができるよ」

「ご親切にありがとう。でも月行くためだから、このままでいいわ」

「君も月に行けるのか。その恰好じゃ、そうは思えないけどな」

「そうね。わたしはまだ綺麗な方だからね」

 僕は周りを見た。他にも多くの木があった。それぞれの木に、同じようにビーグルが縛り付けられている。どれも体の一部が無い。横半分しか無い者もいた。

 空には巨大な月が出ていた。その下に、四角い建物が聳え立っているのが見えた。僕は何だか恐怖を感じ、オアシスから抜け出した。

 また、荒野を歩いた。猫たちの住む集落に辿り着いた。街中には幾本もの線路が敷かれ、何台もの汽車が煙を上げて発車の準備をしていた。

 「おいお前、早く貨物に乗れ。出発するぞ」

 見たことのある蠍が現れ、僕を貨物まで誘導した。貨物の中は、老若男女問わず大勢の猫たちでぎゅうぎゅうに詰められていた。

 汽車は汽笛をあげ、線路を走った。僕は身動きが取れない程の猫たちに挟まれながら、周囲の話し声を聞いた。

「行く先が月じゃないって、本当か?」

「何でも、四角い建物に行くらしい。そこに行った仲間たちで戻ってきたやつはいないから、何とも言えない」

「私は信じるわ。もうすぐ生まれる子供たちを、こんな荒野なんかで育てたくないもの」

「お母さん! おしっこ漏れちゃう!」

「くしゅん、くしゅん」

「あー、口内炎が痛い」

「おい、ノミを飛ばしたの誰だ!」

「月にはやっぱり、ペルシャの猫とか、金持ちがいっぱいいるんだろうな」

 汽車は四角い建物の傍に停まり、大勢の猫たちが貨物から降ろされた。皆、列を成し、狭い入り口に吸い込まれていく。僕も一緒に並んでいた。

「何だお前、トレーサビリティが分からないじゃないか」

 スーツを着たハイエナが僕を呼び止めた。僕の耳を強引に掴み、裏表を確かめた。

「番号の無いヤツは通せん。出直して来い」

 そう言われ、僕は列から外された。近くに並んでいた猫たちが横眼でこちらを見ながら、入り口へと消えて行った。

 僕は辺りが少し暗くなっていることに気づき、空を見た。建物から大きな黒い煙が昇っていた。それが月に向かい、せっかくの綺麗な月が澱んでしまっているせいだった。

 その後もずっと荒野を歩き続けた。そして、疲れて座り込んだ僕に、赤い蠍が話しかけたのだった。

「兎さん。あの月に行きたいのかい?」


 兎だった僕は、眼を覚ました。ぼんやりする意識が正常に戻るにつれ、自分の身体の異変に気付いていった。

 体が動かない。

 正確には、動けない、だった。手足が胴体と一緒に頑丈なベルトでギチギチに拘束されていた。

 目の前も暗闇のままだ。

 眼圧の上昇により、網膜の視神経が破綻していた。暗闇でなく、眼が見えなくなっていたのだった。

「ピー! ピー!」

 声は出せるが、言葉にできない。舌が切り取られていた。

 やはりこれは罠だった。あの蠍とハイエナに騙された。ここで殺される。僕は死を覚悟した。

 しかし、死は直ぐには訪れなかった。

 頸の静脈には管を刺され、点滴が流し込まれていた。全身の被毛は刈り取られ、露出した皮膚に、大量の吸血昆虫が寄生していた。僕はそのまま拘束され、食餌も水も与えられず、途方もない時間が永遠と過ぎて行った。

 心しか動かすことのできない状況で、僕はこれまで以上に無いほど冷静になれた。飢えと渇き、痛みと絶望は、荒野で感じたものの延長にあったのだと理解した。

 しかし何故、こんな死に方になったのだろう。どのみち死ぬ運命だったなら、荒野で野垂れ死んでも、同じだったというのに。

「終わらせたいか?」と、耳の奥で声がした。

「誰?」僕は心の声で答えた。

「蠍だよ。青い蠍。名はコリンだ」

「やあコリン。赤い蠍が言ってたヤツか。毒を盛るんだって?」

「そんな言い方されたのか。あいつにだって毒はあるのによ」

「別にどうでもいいよ。それより、終わらせたいか? って、つまり君の毒で僕を死なしてくれるってことかい?」

「察しがいいな。そういうことだ。もう辛いだろう。俺の毒なら、君の全臓器の機能をストップさせられる」

「それは是非頼みたい。けど、できるなら何でこんな目にあってるのかだけ、知りたいな」

「なんだお前。自分で理解してなかったのか?」

 コリンは呆れた様子で言った。

「荒野で何も見て来なかったのか? 屠殺される牛、解剖用の犬、殺処分される猫とかをさ」

「あ……」

「そしてお前は、実験用の兎になったんだよ。恐ろしいウィルスを媒介する吸血昆虫の発育過程を阻害させる薬の開発研究に、お前の体が使われてるんだよ」

「そうだったのか……。みんな、月に行ったんじゃなかったんだ」

 真実を知らされても、僕の気持ちは落ちついたままだった。これまであった絶望や死への恐怖が、いつの間にか吹き飛んでしまっていた。むしろ、自分は幸せ者だとまで思えるほどだった。

「僕が死んだあと、この体はどうなる?」

「解剖される。皮膚、骨、内臓、脳、全てスライスされ、最後はゴミと一緒に焼却される」コリンは哀れむような声で言った。「どの道それは変わらない。だが研究資材としては、これ以上利用されなくて済む」

 そう言ってコリンは、尻尾の毒針を突き刺そうと構えた。僕は静かにそれを制止した。

「このままでいい。このまま、自然に待つよ」

「死を、待つのか」

「みんなそうしてる。あの牛も、ビーグルも、猫たちも、本当は知ってたんだ。自分は何の為に生まれ、消えてゆくのかを」

「しかし、彼らは運命を選べなかったんだぞ」

「誰にだって必ず死は訪れる。もしその死に意味が持てるのならば、それはとても肯定的だと思わないかい」

「ほう」コリンが言った。静かに涙を流しているようだった。「次、生まれてくるときは、ニンゲンって動物がいいぜ」

「ああ、覚えとくよ」と、僕も言った。

                            (了)




 


 

 


 


 

 



 








 






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蠍座トレーサビリティ Gashin-K @ba407004

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る