2201/7/28/08:21 棗

夜が明ける。

いつの間にか月はグレイの空に吸い込まれてしまった。もう見えない。



昨晩の非常事態の発生で何となくざわざわと不安定に落ち着かなくて、そうこうしているうちに眠らないまま朝になってしまった。

そして、非常事態はもうひとつ発生した。


ボランティアから毎週決まった時間に届けられるはずの援助物資が、来ない。理由は数時間後に配信されたニュースで明らかになった。


“『無国籍難民への物資供給打ち切りへ』

福祉厚生省は27日、無国籍難民への物資供給の中止を発表した。昨今の情勢を鑑みてのことだと説明している。省は「正式な取り決めとは異なる『ボランティア』という性質上、続行の義務はなく、この決定は妥当な判断だ」との意向を示している”


「こんなのはさ、黙って死んでねって言われてるのと同じだよ。なんにも言わないで勝手に決めてさ。馬鹿じゃないの。ほんと馬鹿みたい」

ケルスティンは攻撃的な感情を露わにした。確かに、こんな一方的な決定は地下側からすれば青天の霹靂でしかない。

「仕事も行き詰まりで、生活基盤も奪われちゃった」

抗議しないの、とわたしは訊いた。

「デモとか」

「どこで」

投げやりに返される。

「抗議はずっと前からやってだけど。そもそも抗議らしい講義っていうのもろくにできないんだけど。だってこれ、誰に言えばいいの? 直接代表者に届くの? 政府の実態も政治家もどこで仕事しててどこに住んでるかも分からないのに? 結局ホームページのインフォメーションに書くしかなくない? それって答えてもらえると思う? 」

地下の人たちの大抵は、この境遇に無気力に従順になりつつあった。きっと怒りの出し場すら封じ込められてしまったんだ──ここで過ごした数日間で、薄々とわたしはそれを感じ取っている。ただ沸々と静かな怒りと不安があって、わたしはその空気を感じるのが少し怖い。

ぎりぎりで保っていた社会のバランスも、もう形を保てないくらいに崩れ始めているんだと思う。普通の暮らしができなくなったときに真っ先に悪い影響を受けるのは、こういう立場の人たちなんだ。

「そうなる様な気はしてた」

ロイは数時間前ケルスティンが言ったのと同じような言葉を呟いた。

「情勢を上手に利用してるな。この機会に乗じてうやむやにしようとしてる」

「──いよいよ本当に戦争って感じ」

ケルスティンは跳ねるように立ち上がった。

「カイメツしたセンター見たり、ニュースも見たりしてたけど、今になってやっと実感が湧いてきた」

外行ってくる、と彼女は歩き出す。

「要するに政府はこのチャンスにあたし達が滅びちゃえば良いと思ってるんでしょ。その通りになるの、悔しいじゃん。確かにピンチだけど、まだ誰も死んだ訳じゃないしさ」

「どこ行くの? 」

「どこって決めてないけど。でも、何もしないよりはいいでしょ」

何らかの打開策を探るつもりなのだろうか。ロイはひとこと言いたげな目線をケルスティンの背中に投げたけれど、発言はしなかった。

無力感を味わってはいるものの、ケルスティンはまだ、政策の失望に飼い慣らされてはいない。

それは──子どもだから?

「待って」

そう言ったのは、未だった。

「私も行く」

後ろ歩きしていたケルスティンは嬉しそうに笑った。

「あ──わたしも」

わたしは慌てて二人を追いかけた。





夏はすぐに気温が高くなる。

まだ午前中だというのに、街は籠るような熱気で満ちていた。

街に人の姿がないのは珍しいことではなかったけれど、今日は業務車もまばらだ。

三人横並びで歩く真ん中で、「暑い」とケルスティンは文句を垂れた。

「でも何か楽しい」

そういうこと言ってる事態じゃないけど、と子どもの顔で笑った。

「自由って感じがする、いつもと違う感じ。昼に堂堂と街を歩くのも。歳の近い子と一緒に並んで歩くのも」

とりあえず一番最初に困るのは食べ物だとケルスティンは言う。

「農作エリアはセキュリティが厳しいしさ。その辺に野菜とか果物とか実ってないかな。家庭菜園とか、あるじゃん」

「犯罪だよ」

「あたし、もうずっと前から犯罪者だよ」

本気か冗談か、いずれにしてもケルスティンは場違いに楽しそうで、なんだか気が抜けてしまう。

「お金もちょっとはあるんでしょ? 食べ物、普通に買ったりは出来ないの? 」

随分と沢山の住民が避難したみたいだけれど、ショップは通常通り開いているはずだ。わたしがそう言うとケルスティンは頬を膨らませる。

「ナツメって普通に買い物したことあるの? 」

いきなり問われて閉口してしまった。わたしは自分一人でショップに行って買い物をしたことがない。以前レクチャーで何度か体験したことがあるだけだ。

「あれの支払いね、ほとんどの人がオフィシャルカードだよ。あたしたちはそんなの持ってないから現金でしょ。すごく浮くんだよね」

歩きながらケルスティンは話し続ける。

「それでも慎重に期間を空けて大人が行くんだけど、たぶん地下の人間ってバレてる。バレてるけど、たぶん気づかないふりをしてもらってる」

でも、どうにもならなくなったらまた行くしかないねと彼女は結んだ。

──行けるかな。

この状況で、と思う。この情勢で。


姿を見せない太陽はじりじりとわたし達を攻撃した。わたし達はただひたすら歩いた。

細い迷路のような一般用道路は何処まで行っても住宅で、住宅で、住宅だった──ここは住宅エリアなのだから当然なのだけれど。

「思った以上に何もない」

ケルスティンは言い、散歩みたい、とわたしは思う。未は

「外ってこんなに暑いなんて知らなかった」

と、汗を拭った。

──あ、そうか。

「やっぱり普通はそうなんだあ」

未の感想を聞いてケルスティンはあはは、と笑った。

「知ってる?ナツメって、すっごい問題児だったの。しょっちゅうセンター抜け出してさ。だから外の暑さも慣れっこなの」

「へぇ」

意外にも未は興味を示した。

「本当?」

それはまあ、本当のことだけれど。それにしてもケルスティンにはデリカシーが欠如していると思う。

わたしは曖昧に頷いた。



歩き続けて歩き続けて夕刻になった。

結局、わたし達の得たものは何もなく、本当にただの散歩になってしまった。

「大丈夫だよ」

何が大丈夫なのか自分でも分からないのに、わたしはなぜかケルスティンにそんな言葉をかける。

「きっとなんとかなるよ」

聞いていたのかいないのか、ケルスティンが突然ふっと顔を上げた。内側だけ日に焼けていないその腕をまっすぐ前方に伸ばして指をさす。

「あれ──」

指し示された方向を見ると、なにか黒っぽいものが遠目に見えた。

興味本位で近づくにつれ、それは異様なものだと判った。

「猫」

ケルスティンは乾いた声でそれだけ言った。

「猫? 」

それはちっとも猫には見えなかった。

「猫って──もっとふわっとして丸い感じじゃない? 」

「生きてるやつはね」

ケルスティンは膝を屈めて覗き込む。

「きっとセンサーに引っ掛からなかったんだね。モビリティに轢かれたんだと思う。腹が潰れちゃってる」

きたなくて、醜くて、廃棄物のようだった。

生きている猫と、死んだ猫。その違い。

──死んだってぬいぐるみみたいになるわけじゃないんだ。

その潰れた腹の内部には、コットンや、ましてコードやチップなんてものは入っていなかった。一日陽射しに照らされてカラカラに乾いた血溜まりの奥、開いた口の奥から何かぬるりとした、別の生き物のような、赤黒くてひどく気味の悪いものが見えた。

「内臓だよ」

わたしが硬直しているのに気付いて未はそう言った。

「内臓は普段は見えないけど、これも猫の一部だよ。棗の中にもこれと同じようなモノが入ってる」

——知ってる。

そういうレクチャーを受けた。

わたしだって、知識としてなら前から知っていたのだ。人間や動物の体の中には色々な内臓があって、それぞれ大切な働きをしているのだ。

けれども──。

「知らない」

わたしは思わずそう口走っていた。

──あれが内臓?

そうだとは到底思えなかった。

こんなぐにゃぐにゃの得体の知れないものなんか知らない。わたしの中に入っている訳がない。

「でも、入ってる」

未はきっぱりとそう返した。

「内臓とかも、個性とかあるのかなあ」

ケルスティンが夢でも見ているように呟く。

「ほら、体とか顔とかは自分のって分かるじゃん。 内臓もそうなのかなあ」

そうじゃないと素っ気なく未が応える。

どうしてだろう。その様子に、わたしは何やら言い知れない心許なさの気配を感じた。


未はいつでも自由を従わせている。


ちょっと目を細めて深呼吸をするだけでそれはいつでも手に入る。

未には枷がない。

決して冷たいわけじゃない。でも、ケルスティンがいてもいなくても、わたしがいてもいなくても──きっと彼女は何も感じないのではないだろうか。

これから先どんな状況になったとしても、やる事はやるだろうし、やらない事はどうあってもやらない。未はそうやって、独りでも生きていけるような気がする。

でも、その怖い自由は、糸がぷつんと切れて制作者の手から引き離された凧のようにも見えた。


「帰ろっか」

気が抜けたようにケルスティンは立ち上がる。

未はどこなのか、何処か遠くを見ていた。毛量の少ない、ほそくてやわらかな髪が風にふわりとなびいている。

もう暗くなるな、と独りごちた。

そうしてふっと振り返って、

「先、帰ってていいよ。私用事があるから」

「用事?」

なにそれ、ケルスティンはあからさまな不審顔をする。

未はそれに答えずにわたしを見て、にやりと目を細めた。


「そうだ、棗も来て。道案内してくれる? 」

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