2201/7/28/0:14 棗
予想は出来ることだったんだけどさ、と言ったケルスティンは大きく息を吐き出した。
「でも、実際に現実になると思った以上にショックだよね」
逃げられた、とうんざりした顔で彼女は背後の壁に寄り掛かった。
仕事の取引相手がいつもの落ち合い場所に来なかったのらしい。こんな事は今まで一度だってなかったそうで、戦争が激しくなる前に取引を丸投げして恐らくどこかの地方に避難してしまったのではないか、とはロイの推測だ。
「街もさ、怖いくらい静かなの。家の明かりも殆んど点いてなかったし。人の気配とかも全然なかったし」
地下全体はケルスティンからの非常事態の報告を受けて緊迫したムードに包まれていた。
地下住民達が続続とメインフロアに集まって来る。
眠っている人は一人も居ない。大人も。子供も。それほどの大事なのらしい。
「あんな派手な爆撃を見たんじゃなぁ」
まだ顔も名前も覚えきれていない地下住民の誰かが言う。
「──怖気付いたんだろうな。こんな仕事あっちにとっちゃ簡単に切れるんだろ。そりゃ余裕があれば儲けより身の安全が大事なんだろうけど、情もなにもないな」
去ったのは彼らに限ったことではない。一般住民の大半もここに留まって避難生活をするのではなく街を出て行くことを選択したようだ。たった二日ほどで、この都市はゴーストタウンのようになってしまった。
「──で、それに乗じてあの顔の細長いオッサンもさっさと逃げちゃった訳だ」
ケルスティンはもう一度ため息をついた。
「そいつだけじゃなくて、
「逃げるっていう選択があるだけいいよね。あたしたちの場合、逃げるもなにも行くあてがないんだから」
誰もが途方に暮れている様子だった。纏まらない騒めきだけがこだまして、漂うのは落胆と動揺の空気だけだ。仕事相手から突然切られた──わたしにはその事実しか把握出来なくて、それが何を意味するのかが分からない。
「あの──」
わたしは小さな声で発言した。
「わたし、よく分からないんだけど……。それ、無くなっちゃうと困るの? 」
たくさんの視線が一斉にわたしに注がれた。すごく怖かった。
「ごめんなさい」
「すぐ謝るなって言ったじゃん」
ケルスティンはこの前と同じに怒った。
「財政危機ってこと」
ナオはそれだけ言うと、説明してあげな、とケルスティンに振った。
*
ケルスティンの話によると、地下の人間は正規の労働を許可されていないのだそうだ。
国籍を持っておらず、勿論国民ナンバーも国民カードもIコードも持っていない彼らは、データ上存在していない事になっている。そういう人が仕事に就くと手続きが色色厄介なのだという。
その代わり、週に二度食糧や生活用品などの“救援物資”を政府から受け取るらしい。
「でもそれ、全然足りない」
ケルスティンは説明を続ける。
「政府はあたし達みたいなのがこれ以上殖えないで欲しいと思ってる。だから救援物資も少な目にしてる。食事内容とか、見たら判るでしょ」
確かにここでの食事は大抵、パンとカップ一杯のスープのみだ。
「だからと言って抗議したところで地下街の立場が余計悪くなるだけだし、下手をすると何にも受けられなくなる可能性だってある。援助資金は国民の税金から出てるから要は『国からの善意の施し』なんだよね。そんな事するくらいなら国籍取得させてよって思うけどね。それは色々理由つけて取得させてくれない。あたしたちも肩身が狭い」
わたしは何も答えられなかった。政府は地下の人達の弱い立場を利用しているのだ。
「働いてお金を稼げれば何の問題も無いんだけど、でも普通の仕事はさせてもらえない。だから、やるとしたら
「アンダーグラウンド? 」
「つまり、悪い仕事」
「悪い──」
悪くて、危ない。
「何を──してるの?」
知りたいような。
知りたくないような。
「ひとことで言えば密売。認められていないものをこっそり仕入れて、こっそり売る。犯罪だから見つかれば捕まる」
「捕まる?」
「そう」
「それ、危なくない?」
「そうだよ。危ない仕事だもん。分かってるけどどうしようもない──」
その悪くて危ない仕事は、こんなふうに行われていたらしい。
救援物資を箱詰めする人の中に、地下を伝達経路として違法取引をするグループが紛れているそうだ。彼らはどこからか違法な物品を入手してきて、ニューメトロに点在するセルフロッカーに入れておくのだという。ロッカーはパスワードを入力すると掛かる仕組みになっていて、再びパスワードを入力すると解錠できる。パスワードは毎回異なるのだそうだ。
物資の箱詰めの際に、彼らは箱の底のわずかな隙間へ小さな紙切れを忍ばせる。その紙切れに毎回のロッカーの場所やパスワードが記されており、受け取った地下側は、決められた日時にそのメモを必要としている取引相手に届ける役割を担っている──のだそうだ。
言われて納得した。
今の時代、スクリーン上で殆んどの事が出来る。
けれどもこの取引の場合それが却って弊害となる。犯罪抑止の意味でもあえてそういう環境を整えたのだと聞いたことがあるけれど、どうしたって違法取引の記録が残ってしまうので都合が悪いのだ。直接会合するにしたって普通の国民は何処へ行くにも居場所を把握されている。
飲食店で会うにしても個人の家で会うにしても、必ず国民カードを使用する機会がある。何にもない野外で会うのも不自然だ。
そういう観点から考えると、データ上存在していない人間──地下の人間──は便利な存在だったっていう訳、とケルスティンは説明した。
「取引相手が偽造の国民カードを作ってくれてさ。ナオがそのカードに細工をして、中にメモが挟めるようになってるの。記録上は落ち合い場所の倉庫に出入りしてるのはそこの従業員って事になってる。そこであたしたちはメモと現金を交換する。そうやって生計の足しにしてる」
途中で見つかって捕まった仲間もいるよとケルスティンは付け加えた。
「この近所に住んでる住民も、あたしたちの事を良く思ってない。だから通報されたりするんだ」
それは、わたしの初めて知る世界だった。
現実を生きている。
ただふわふわと生きてきたわたしと同じ街で、生きること自体が精一杯の人達がいて、その中にはわたしと同い年の女の子もいる。その事実を改めて突き付けられたよう感じた。
「でも、それも今日で終わりなのかな。相手が逃げちゃったし」
これからどうするか。この先の見えない戦時下で。わたしと未という余所者まで二人分抱え込んで。政府からの救援物資だけで何とかなるものなのだろうか。肩身が狭くて、なんだか恥ずかしくて、この先が不安で。
──戦争になるってこういうことなんだ。
攻撃がなくても、直接戦わなくても、生活の基本全てがじりじりと弱くなっていく。それが心許なく、怖い。
「その取引してた違法なモノって、何だったの」
ずっと黙って聴いていた未が尋ねた。
ケルスティンがナオをかえり見る。未の臆することのない直接的な訊き方にどきりとすると共に、彼がこの仕事を指揮していたのだと知って驚く。ナオは首を振った。
「俺たちは知らない。教えてもらえなかった」
知らない。
「ただ見つからないように慎重に運び屋をしてただけ。俺はあえて考えないようにしてたけど」
なんだよ、だったらあたしと同じだったんじゃないかよ──悔しがるような、安堵したようなケルスティンの声は小さく頼りない動物の鳴き声みたいに聞こえた。
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