2201/7/27/23:29 棗

「月の裏側は、地球からは見ることが出来ないんだって 」

ここから見える面を表側と仮定した場合の裏側のことだけど──と未は妙な説明を加えた。


「月と地球の回転は同期シンクロナイズしてるから。見ちゃえばきっと何てことはないんだろうけど、見れないって言われると却って気になるよね」

わたしは空の不可思議な球体を見上げた。

黒い空にまあるくぼんやり浮かんだ月は、よく見ると場所によって色が違う。うっすら陰影がついている。

昔の人は、その陰影の模様に意味を見出そうとして“月にはうさぎがいる”などと空想したらしい。言われてみれば何となくそう見えなくもない。

「未は、どうなってると思う? 裏側」

今、ここで何かの拍子に月がくるんと回ったら、裏側はどんな模様に見えるんだろうと思う。

「どうなんだろ」

未はちょっと笑って、あまりはっきりとは答えなかった。

ケルスティンは今、留守だ。

彼女の言うところの“仕事”に出ているらしい。

──悪い仕事。

しかも危ない仕事、と冗談めかしてケルスティンは笑った。

「三十分くらいですぐ終わるの。そしたら合流する」

そう言って深呼吸ひとつして、いつもと違う小さい出口から出て行った。


わたしと未は連れ立って、ケルスティンの夜のお気に入りの場所にやって来た。

未が地下にやって来て二日が経過する。

あれ以来、わたしはわたしで無くなってしまったようにふわふわと浮ついた気分でいる。色々な感覚や気持ちを置き去りにして来てしまったみたいな。

あの一瞬の爆撃で全部を失ってしまった。わたしの主体であるオフィシャルカードさえも。社会的な存在証明もない今のわたしはもう、生死不明の行方不明者だ。それは、本当の意味で無国籍難民になってしまったということ。

政府は自衛隊をロシアへ送り出したらしい。なんだかよく分からないけれど、日本の偉い大人たちは破壊に破壊で応えることに決めたようだ。

今のところ、あれ以来どこの施設もロシアからの攻撃は受けていない。だからと言って手放しで安心していられる訳ではないけれど。却って、いつどこが攻撃されるのか──という見えない不安は日に日に膨れていくのだった。


センターが被害を受けてすぐに始まったレスキューは今日で打ち切りになった。

必要がなくなったのだ。

ニュースでの報告によると、すでに発見された被害者は全員死亡、まだ見つかっていない行方不明者の生存確率も極めて低いという判断がされたそうだ。確かに、一番乗りで破壊されたセンターに辿り着いたわたしたちも、発見できた生存者は未一人だったのだし、望みはとても薄いのだろうと思う。

「──妙だよな」

画面を見つめて呟いたロイに何が、とケルスティンが尋ねる。

「俺たちも見ただろ、人が大勢倒れて死んでるところ。でも、よく考えてみればあの人たちの死因は何だったんだろう。どう思う」

「どう思うって言われてもさ」

「例えば建物の下敷きになって圧死したなら分かる。あと、爆撃の衝撃とか熱風とかさ。実際そうやって死んだんだろうなって人もいたし。でも、俺たちが最初に見た人達は単にフロアに倒れただけの状態で死んでた。外傷も特になかったし、建物も大して崩れてなかっただろ。そういう場合ならむしろ──」

ロイは未に視線を向ける。

「この子みたいに擦り傷程度で助かる確率の方が高いんじゃないのか」

その通りだと思った。重くて暗い空気が漂った。

何かある──ロイはスクリーンに映ったセンターを睨んでそう言った。


センターがぺしゃんこになって存在自体がなくなってしまったので、わたしは結局地下に住むことを許された。

もう一人のセンター出身者、未と一緒に。

本当は別地区のセンターに押し付けても良かったところを、このまま置いてくれるというのはきっとここの人達の優しさなのだろう。

未はたった二日で、“謎の少女”からすっかり“未”として定着した。

未は賢い。無国籍難民の存在や歴史やシステムも熟知していたし、ここでの新しいやり方もどんどん吸収して覚えた。ロイはその理路整然とした感情を交えない話し方が気に入ったようだった。

わたしも、少しずつ頑張っているつもり。

今日は色んな人にちゃんと挨拶ができた。朝の仕事も割り当てられて、食器洗いを手伝った。

居場所はもう、ここしかない。自分がしっかりしなければどうにもならない──そういう考え方をしたのは初めてだと思う。

あの日、あんなに屍体を見て、仲間を失って、環境が変わって怖いほど人との距離感が近くなって──本来のわたしはそのことでもっと混乱したり動揺しているはずなのだけれど、わたしはなぜだかあの日見たことをうまく考えられなくって、まるごとすっぽ抜けたようになってしまって、それが却ってここでの順応に役立っている。元々誰とでも問題なく仲良く出来る子だったみたいに、ケルスティンや未と親しく接することが出来ている。ケアチャイルドにまでなっていたわたしがだ。

そうやって過ごすうち、ケルスティンの言う“悪くて危ない仕事”も、わたしはいつか平気でするようになるのだろうか。

そういえばその仕事で偽造カードを使うようなことも言っていた。その時点で犯罪だ。まだ仕事内容の方は詳しく聞いていないし、やるようにとも言われていないけれど。

──悪い仕事。

悪いことしてるけど悪い奴じゃないよとケルスティンは言った。

悪い奴じゃないのならどうして悪い仕事をしなきゃならないんだろうと思う。

ケルスティンは、どんな気持ちでその仕事をするんだろう。ケルスティンは──。



「星は」

しばらく黙っていた未が不意にそう言ったので、わたしは内面世界から呼び戻される。

「月と違って、模様とか全然分かんないね。ああ違うか、月だって星なんだ。ここから一番近い星だからよく見えるってだけだね」

──星。

砕けて散ったかけらのように、宇宙とか呼んでいるよく分からない空間に無数にある星。一見雑然としているようで、きちんとした法則に則って周回したり回転したりしているらしい。月も。地球も。

「ケルはね」

そう言って寄り掛かったフェンスがこの前と同じように傾いで軋む。

「ケルは、星を見ると宇宙だってことを思い出すんだって」

「宇宙? 」

未がわたしに顔を向ける。髪と同じ色の黒い瞳がわたしを捉えている。でもケルスティンがするのと違って威圧感はない。

「ここは東京だけど、その前に日本で、その前に地球で、その前に宇宙なんだって。そう思い出すんだって」

未は大きな瞬きをして、それからまた空を見上げて目を細めた。

「そっか」

頬杖をついた未の額は月のように円くて、白くて青い。

「昼は明るいからね。空の色はグレーになって星も月も見えなくなるから宇宙と地球は概念的に遮断される。代わりに自分から見える範囲のことだけが世界の全てみたいな感覚になってくる」

きっと未はセンターでの生活のことを指しているのだ、わたしは勝手にそう解釈しながら聴いている。

「でも、そういう状態がずっと続くと、何か基本みたいなものが失われていくような気がする。本当に考えなくちゃいけないことを考える力までなくなるみたいな。ここは宇宙だっていうこともすっかり忘れて」

「難しい話」

わたしはちょっと笑う。でも、そういう話は好きだと思った。

宇宙は、どこか遠いところにあるものなどではなくて。

ここはすでに宇宙の一部なんだ。宇宙があまりにもわたしたちに浸透しすぎていて、逆に気付かない。

──違う。浸透じゃない。

そうではなくて、わたしたちの方が宇宙に寄生しているのだろう。ずっと昔から。


密かに昂揚していた。どうして夜はこんなにも無防備になれるのだろう。人との距離感が近くても不快じゃないのだろう。仲良くなれる気がするのだろう。暗さと静寂と宇宙と星は、わたしにわたしらしからぬ大胆さを与えていた。

「きいてもいい? 」

未が倒れてた部屋のこと──とわたしはそっと尋ねてみる。センターのコントロールエリアに不自然にぽつんとあったあの部屋のことを。

「あれ、未の部屋だったの」

「そうだよ」

抵抗もなく未は答えた。なんでそんなこと気になるの、と逆に問われる。

「わたし、今まであんな場所にああいう部屋があるなんて知らなかったから」

「そうなんだ」

「あと、本も。紙の本がいっぱいあってびっくりした」

「あれは」

そう言いながら彼女は頭の中でその本の映像を思い起こしているようだった。

「すごく大事にしてた本だったんだ。あれもここに持って来れたら良かったけど──」

そんなに大事なものだったのか。

「何の、本だったの」

未は目を細めて、歯を見せずに口角を上げて笑った。

「原点だった」

どういう意味なのか分からなかった。

「原点? 」

私、あそこから出られて良かったんだと思う──と未は問いに答えず更に意味深な言葉を重ねた。

「──さっきの“月の裏側はどうなってると思う”っていう質問だけど」

唐突に話題を変える。

「幾ら考えたって想像は想像でしかないでしょ。結局本当のところは分からない。でも、それは無意味なことじゃないと思う。知りたいと思うから」

だからこそ知ろうとして行動するんだ──未はなぜか力強くそう言った。



わたしがその意味をはかりかねて唖然としていると、ビルの下から誰かがバタバタと勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

「ケル、帰ってきたのかな」

言っているうちばんっとドアが開いた。

どう見てもオーバーサイズなシャツの裾を揺らして、ケルスティンはしばらく肩で息をした。さすがの彼女もここまで一気に上がるのはきつかったのらしい。

「地下に戻って」

やっと声を出せるようになるとケルスティンはそう告げた。


「非常事態になった」

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