2201/7/27/15:10 楠木修治
なぜ自分はここにいるのだろうと思った。
移動などそう難しいことでない。農業従事者や現場作業員など職場が固定されている高給職と違って、小説家である私はオフィシャルカードひとつでどこへだって身軽に転居出来るというのに。
移動費や転居費にしてもそれ程負担になるものでない。その辺りのサービスは充実しているし、移動は長距離の場合にのみオプション料金を支払えば良いだけで、
久し振りの外出で、随分街並みが様変わりしたと感じた。景観だけでなく、纏う雰囲気も以前とはわずかに異なるようだ。モビリティの窓越しにこうして眺めるだけで、私はどこまで行っても他人事だ。
都内に住んでいた担当編集から、一時避難するので挨拶がてら直接面会したい旨のメッセージがあったのは昨日のことだった。
「お仕事上のおつき合いは今までと変わりありませんが、今後直接お目にかかれる機会は限られてくることと思われます。つきましてはお礼とご挨拶も兼ねて先生のご自宅にお伺いしたく、ご連絡致しました」
スクリーンのメッセージボックスには律儀な文面でそうあった。リモートでのやり取りだって幾らでもできるというのに律儀な──前時代的な男である。こちらの都合の良い日時に出向くというのでスケジュールを見直しかけて、私はふと思い直した。
*
戦争が勃発した。
ロシアに駐在していた日本大使が引き上げたのだから実質戦争だろう。それから間を置かず一昨日のセンターを狙ったテロだ。まだ一週間も経過していない。
狙われたのはメインセンターと呼ばれる本部のような役割を担っている東京Bエリアの就学期未成年育成センターで、
死んだと言われても薄情な私はいまいち実感が湧かない。若いのに可哀想に、という月並みな感想が
あのテロから二日経つ。正直、何かが変わったという実感はない。
危険ではあるだろう、確実に。付近の一般住民への攻撃だって続行されるかも知れないのだ。現に近隣の住人の過半数はここに留まり続ける危険性を憂慮してすでに転居、または一時避難してしまった。誰にでも出来るスクリーンを使ったデスクワーク職は時給の低さの代わりにこういう非常時やはり身軽である。
白石はどうしているだろうと連絡を取ったが、彼の日常も特に変わったところはないらしい。私の呑気さと危機管理能力の薄さは白石と同レベルかと思ったら少し笑えてきた。
過去最大の大戦当時も、国民の大半は終戦の一、二年前までは案外普通の生活を送っていたというし、その時分までは空襲もなかったそうだ。つまるところ、戦況がどう動くかよく分からないからこそ気楽でいられたのだろう。人はいつまでも緊張状態のまま生活し続けられぬように出来ている。
大丈夫かも知れないし、或いはそうでないかも知れないという不安定さ。加えて国が戦時下になろうがなるまいが生活はあるし、仕事をして衣食住を満たさねばならぬ必要は相変わらずだ。その優先事項に埋もれて、分からないものを人は簡単に放棄する。特に戦争に正しい手順なんてあったものでないし、国の要人が勝手に物事を進めていくだけだ。いや、要人にだってコントロール不能だ。第二次世界大戦当時はまだ天皇制が当たり前のように機能しており、半分崇拝に近いくらいだったというが、その天皇の望んだ「和平」をさえ最高指導者をもってしても叶えることが出来なかった。
事態を変えることは一個人には無理なのである。
よく分からない何か大きな流れに乗せられて、人はいつだって翻弄される。そもそもが自然災害にさえ太刀打ち出来ないのだ。人はか弱い。
今回のこれも、やがて本格的な戦争へと突入することは避けられないのだろう。しかし、それにしたって不自然な点が多々ある。
一応公式に報道されている内容としては、『北方領土に於ける所有権に対する認識の著しい齟齬による』と伝えられているが、そんなものは百何十年も前からずっとそうなのである。そこだけが理由というのならとっくの昔に戦争に発展していたはずなのだ。恐らく、つい最近北方領土関連で発覚した新たな事実が絡んでいるに違いないと私は踏んでいる。両国ともが認識していて、両国ともがどうしても北方領土を手放したくない何かが。そのくせ表立って国民には公開出来ない何かだ。
だとしたら──可能性は何だろう。
たとえば、法的な観点。近く国の所有土地に関する世界基準が改正される。国有面積によって何らかのカテゴライズがされて有利になる。北方四島が日本領土に加われば、支援額が変わるのかも知れない。
それとも、島そのものの価値上昇。そもそも北方領土には未知の部分が多い。あそこは長年の領土主張の膠着のせいで殆ど未開発になっているエリアなのだ。結果的に自然保護されていて、事実上は世界共有地域と変わらない。
曰く、豊富な地下資源が眠っているだとか、太古に暮らしていたアイヌの民族が残した貴重な歴史が残っているだとか──半分は伝承に近い類ではあるが。
ただ、厳しい天候のせいで居住には適さない。ロシアは駐在員を置かず精精定期的な巡回に留めていたようだ。
世界三大漁場として数えられたのは随分昔のことだし、有害物質の生物濃縮のリスクから人々は昔ほど天然の海産物を食さなくなった。地下に大量にあると言われている石油だって、水素と太陽エネルギーの供給が安定した今、それほど使用価値のある資源ではない。それ以外の要因があるとしたら──。
そこまで考えて嫌になった。
この状況にも、要らぬことを机上でねちねち考えて行動しない自分にも。そのくせ無駄な考察を練って文章で一人前に主張する。
どうしてもっと、現実的になれないのだろう。
自分の今後を考えて現実的な安全対策を講じたりできる人間であったならばと思う。生きようとする意欲が薄いのである。この景色と同じ。外の風も気温も匂いも分からない。ただのスクリーンの背景画像と変わらない。そこを街と信じ込んで移動する私は滑稽で、もっと言えば私だって背景画像と変わらない。
なぜ自分はここにいるのだろうともう一度思った。
──見届けたい。
ふとそんな言葉が浮かぶ。結局それに尽きるのかも知れない。何も変わっていない自分に呆れる。
けれどもそれと共に、私はここに留まる責任がある、そうしなければならない──そんな予感めいたことも少しだけ無根拠に思った。
時間ぴったりに到着したモビリティに乗ったまま、本社ビルの来客用エントランスで暫し待たされる。
やがてスライドしたドアの向こう側に恐縮したように頭を下げる担当編集の鷲沢が現れた。
「いやあ、お待ちしておりました。先生の方からわざわざお越しいただき恐縮です」
鷲沢は濃い眉を思い切りカーブさせて営業的に微笑んだ。
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