2201/7/25/08:49 棗
視界は澱んでいた。
半分落ちかけた天井の粉塵が部屋の空気を濁らせ、少女は今にもその濁りに紛れそうだった。咄嗟に動けず、わたしたちは茫然とその少女を見つめていた。
少女の指先が微かに動く。
それから、頭が動いた。
──起き上がろうとしてる。
慌てて走り寄る。
腕を掴んで支えようとしたら、もう一方の腕をケルスティンが支えてくれた。生身の人の体は密着すると生温かくてぐにゃぐにゃで、とてもパーソナルな部分に触れてしまっているようで怖くて堪らなかった。
──だけど、これが。
この生温かい吐息と湿度と不均一な感触が人間だ。どんなに有機的なものを排除しようとも、これが生きているということなんだ。
助け起こされた少女は寝起きみたいな顔で辺りを見回した。
着ているのは国有未成年指定カラーのブルーグレイのユニフォーム。前髪のない、長くて細くて黒い髪の毛と切れ長の目と白い肌。大人っぽい顔立ち。身長はわたしやケルスティンより高かった。
見たことのない子のような気がするけれど、確かなことは言えない。自分のグループメートの顔さえよく覚えていないのだ。
でも。
さっき感じた。
空き土地に佇んでいたときも、それから昨日センターを抜け出す前も。
呼んだのは。
──呼んだのはあなたですか。
「──誰ですか」
少女は焦点の定まらない目でそう訊いた。それから、
「何が──起こった? 」
と顔を顰めた。
「爆撃されたんだよ、ここ」
「爆撃? 」
少女がもう一度眉根を寄せた時、どこかで建物の崩れる派手な音がした。
「もう行こう、そろそろ危ない」
ロイがみんなを急き立てる。
「行くって、この子は」
「その子も一緒に連れてく」
ケルスティンは瞬間驚いたようにロイを仰ぎ見て、それから少し笑った。
「とりあえず出るよ、説明は後でする」
怪我、無いねと言ってケルスティンは少女の腕を引き、ロイに続いて駆け出した。
「ナツメもだってば、早く! 」
その声にはっとして、わたしも一拍遅れて追いかける。焦っていたので、コントロールエリアから外へ出ると崩れた瓦礫を踏み分けて無造作に突き進んだ。
「ナツメ」
助けた少女と共にすぐ前方を進んでいたケルスティンは咄嗟にわたしを呼んで、腕をぐっと引き寄せる。
「なに? 」
その行動に違和感を感じて、わたしは歩いてきた足下の瓦礫を無防備に振り返ってしまった。
──屍体。
叫んで、ケルスティンにしがみつく。死んでる。見回せばどこでもかしこでも。血を流している。瓦礫に潰されて汚れている。
ケルスティンに抱えられるようにして、震えておぼつかない足でわたしは逃げた。
*
──こんなの、こんなの。
絶対違う。こんなのセンターじゃない。あんなに無秩序に、あんなに薄汚れて、絶対違う。絶対違う──。
気がつけば辺りは騒がしく、何処からか災害緊急モビリティのサイレンが幾つも聞こえる。あんな音、いつからしていたんだっけ。景色が目まぐるしく変わる。自分の足をただ動かしてどこをどう通ったのだか朧げなまま、気が付いたらわたしはケルスティンと連れて来た少女と共に地下の冷たいフロアに座り込んでいた。
「大丈夫? 」
ケルスティンの問いかけにわたしは何度も馬鹿みたいに頷いた。
「あれは、しょうがない。誰だってああなるから。あれはナツメが悪いんじゃないよ」
もう一度頷いて、わたしは膝を胸に寄せて抱えた。そうしていると体の震えは徐徐におさまってきた。
そうか、そうか、と現実が少しずつ体に染み込んでいく。
もう今までの生活に戻ることは出来ないんだ。
本当に出来ないんだ。
センターに閉じ込められて、大人に守られてただぼうっとしている内に戦争になって死ぬかもしれないのなら、自分の力をちゃんと使って生きたいと思った。本気でそう思った。
でも今日、本当にセンターは爆撃された。本当に粉粉になってしまった。本当に人が死んだ。この目で、見た。
それは現実のことだった。
もしかしたらわたしは、戦争なんか起こらないとどこかで思っていたのかも知れない。耳で聞いて、脳で理解はしたけれど、ちっとも認識出来ていなかったのかも知れない。
何かあったらすぐ戻れるって。
ずっと家出したままの訳じゃないって。
──きっと、心の隅でそう思っていた。
いまさら気づいた。
目を上げると、ロイが向こうからやって来るのが見えた。てっきりここにずっと一緒にいるものと思っていたけれど違ったらしい。そういえばわたしは戻って来てから震えているばかりで、周りの状況を把握する余裕すらなかった。
「スクリーンで速報やってた。上空からの様子が映ってた」
ケルスティンの隣に座り込みながらロイは顔をしかめる。
「上から見たらよく分かったけど、あれは明らかにセンターを狙った攻撃だ。センター周りはそれほど巻き込まれてなかったから、多分軍事用ドローンに中性子タイプの破壊兵器を積んで落としたんだろうな。防衛庁は、今回のロシアからの攻撃を宣戦布告じゃなくてテロと認識する、みたいな発表をしたらしい」
いきなり民間人を巻き込んでの武力行使だからとか──ロイは何だか難しいことを言っていて、わたしは後半辺りからほとんど内容を理解出来なかった。
「それから──」
今までの調子と一変して、ロイの口調は少し淀んだ。
「センターの生存者は、今のところまだ一人も確認出来ていないらしい」
「ひとりも──」
みんな、死んでしまったの。あんな風に汚らしく転がって動かなくなって血を流して。日菜子さんも真希さんも。グループのメンバーも。
──でも、じゃあ。
ロイとわたしとケルスティンの視線は、自然とセンターから連れて来た少女に注がれた。
「あんたよく生きてたね。何で助かったんだろ」
彼女は今のところ、あの時センターにいた人間の中でたった一人の生き残りということになる。ケルスティンの発言に、少女は淡々と「よく分からない」と応じた。
「私、いつから意識が飛んでたのかも覚えてないから」
こんなにも急激に状況が変化したというのに──いや、急激に変化したからこそと言うべきか──彼女は少しも動じていない。まるで起きた惨状を画面越しに眺めているかのような、自分のことを話しているのにその感覚がないかのような無関心さ。もしわたしもあの時あそこに実際いて彼女のように助かったのなら、こんな反応になっていたのだろうか。
「名前は? 」
ケルスティンはわたしに初めて会った時のように少女に尋ねる。
「あたしはケルスティンていう。悪い事してるけど悪い奴じゃないよ」
「名前は」
たぶん、と言って、彼女はフロアの上に指で文字らしき形をなぞった。
──未。
白く細くしなやかな指。甲にみどりの血管がうっすらと透けている。
「──み? 」
「そう読むんだと思うけど」
「思う、って」
「呼ばれたことがないから」
少女──未というらしい──は無感情にそう答えた。え、と思わず三人揃って聞き返す。
「いくら何でもそれはなくない? 」
「そうでもないよ。ちょっと来なさいとか、座りなさいとか、名前抜きでも呼ばれれば分かる」
「そうかも知んないけどさあ──」
「ずっとあそこで生活してたんだろ」
ロイの質問に少女が頷くと、彼は難しい顔をして黙り込んでしまった。あいつ、考え込むと他の機能がストップするんだよ──ケルスティンがわたしの耳元で囁いた。
「ナツメはセンターで会ったことないの」
「多分ない」
ないはずだ──と記憶を探る。
「子ども同士の関わりって普段からあんまりない」
「ふうん。変な感じ」
変なのだろうか。
「変かな 」
「うん。だってずっと一緒に暮らしてるのに。仲間なのに」
「仲間──」
そう、仲間だったのだ。
今までそんな風に考えたこともなかったけれど、同じグループのあの子たちは、きっと仲間だった。
「センター、職員も合わせると、千人くらいいたの」
──でもみんな、死んだ。
どう受け止めるものなのか、わたしはよく分からない。
怖かったのは確か。動揺もした。でもそれは爆破されたセンターや無惨な屍体を見たからだ。
仲間が死んだということで自分がどう感じているのか、わたしはわたしの気持ちがよく分からない。悲しいのかどうかも。
「でも、ナツメは生き残ったんだよ」
何も喋っていないのに、考えを見透かしたようにケルスティンはわたしの目をじっと見て言った。
「──その、未って名前は」
考え込むのを止めたらしいロイは再び少女に話しかける。
「呼ばれたことがないんなら何で分かったの」
「個人データは見ることができたから。そこに載ってて」
確かに個人データは、管理は職員がするけれど、閲覧ならセンターの未成年も自由にできる。わたしのデータの場合、無断外出のデータばかりが上書きされていたけれど。
「名前の他のデータは? 」
「私のには特に変わった点はなかったと思うけど──。学力レベルと、健康状態の記載だけ。あとは基本情報」
「年齢は? 」
「十三」
十三歳ならカリキュラム7の子だ。わたしやケルスティンよりひとつ年上ということになる。
「グループとか、あるんだろセンターは。担当保護員とかもいるんだろ」
少女は怪訝な顔をした。
「そういうのは──よく分からない」
──え?
わたしは耳を疑った。
「分からない? 」
分からないと彼女は自信なさげに応じる。
それはおかしい。
それはないと思う。それらは国有未成年がセンターで生活する上での基本なのだから。
「じゃあ今までどういう生活してたの」
「学習をして、食事して、運動しての繰り返し。時時、身体検査もあった」
そのうんざりするようなルーティーンの生活はわたしとほぼ同じだと思った。ただ──。
「ただ、何だかぼんやりしてて。周りの人たちがどんなだったかははっきりしない」
──混乱してる?
見た目には分かりにくいけれど、先ほどの攻撃に彼女は相当のショックを受けたのかも知れない。PTSDや、一時的に記憶が欠落した状態になってもおかしくないのかも知れない。
「それは──」
わたしが次の言葉を繋げる前に、ケルスティンが先に口を出す。
「それって、何かのショックで起きる記憶喪失とかそういうやつなんじゃない。分かんないけど」
爆撃の時に頭ぶつけたとか──そう言って少女の額あたりを見る。
「それは」
言いかけた少女は、不意に気配を感じたのか階段あたりの方にぱっと顔を向けた。
壁越しにわたし達を覗き見ていたらしいリサが、翻って駆けて行くところだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます