蜜柑の花が咲く頃に

 実咲の口から聞きたくなかった、「東京の大学に行くんよ」なんて。

 高校三年生の冬はとにかく時間がなかった。同じ大学に行きたい思いが功を奏したからだろうか、実咲の偏差値に少しなら近づいた。と、同時に石橋を叩いて頭を冷やす時間もなかった。

 その結果、大きなすれ違いが生じる。


 世間がよく言う友達以上恋人未満という関係は、俺と実咲みたいだと友達からよく言われた気がする。付き合ってもいないが、よく話をし、放課後には教室に残って夜遅くまで勉強していた。確かに、教室に残って勉強しているクラスメイトは多かったが、帰りが電車通の為、他のクラスメイトよりも話す時間が長かった。駅まで自転車を漕ぎながら話し、お互いの進路について語ったり、時には愚痴をこぼしたり出来る数少ない女友達だと思っていた。そう、あの日までは。


「あんね、うち、東京の大学に行くんよ」

 冬休み目前のある放課後の日、駅のホームで、実咲は突然の告白をした。

「えっ?」と鳩が豆鉄砲を食ったような情けない顔をしていたと思う。俺の頭の中は、真っ白だった。

「元々、東京に生きたいって言よったやん? やけどね、親にホンマのこと打ち明けたら、『好きなとこ行かんかい』って言ってくれたんよ」

 実咲の言葉が何度も脳内で繰り返す。俺はそれを時間をかけて嚥下した結果、「ま、まあ、お前なら行けるって。うん、行けるよ、絶対。I大で留まるのが……」と語尾を濁し、適当な言葉で東京の大学に行くことを勧めた。逆の立場で考えれば、曖昧な激励なんて欲しくないはずだった。今考えれば、ダサすぎる返し方だった。

「潤也は、I大なんよね?」

 ポケットに手を入れ、二車線しかない線路の夜の景色を眺めながら、頷いた。ネックウォーマーで口元を隠し、寒さと焦りを隠す。温かい息を少しずつ吐けば首元の温度が高くなる。

「やっぱり、そうよね」

 やっぱり? という台詞に違和感が生じる。やっと目線を隣にずらせば、同じように二車線を眺める実咲が居た。「やっぱり、って?」と、口が勝手に動いていた。

「あ、あぁ、潤也はI大にやっぱり行くんやなって」

 何だよ、その意味ありげな台詞。やっぱりって何だよ、I大に行くのが嫌なのか、見下しているのか、いや、そんなことは無い。思考が渦を作り、平静が乱れていく。

「お前も行くつもりだったやん」やっべぇ、そっけない返事だったと思えば、遅かった。

「そうやけど、行きたいもんは仕方ないやん」

 そう言われたら何も言い返せなくなり、実咲の横顔を上から見ることしか出来ない。

 沈黙が嫌いだと言っていた実咲が喋り始める。

「寒っ。あーあ。冬なんて嫌いや」と、語尾が掠れる。反対方向の地面に顔を向けた。じっと続きの言葉を待つと、袖口を顔に近づけて拭き取り、ピンクのチェック柄のマフラーで口元を隠す。どしたん? と聞く必要は、無かった。何故なら、前髪とマフラーの間のハイライトがユラリと円を描いたから。ふと、ポケットの中から拳を抜き、腕を伸ばし、手を曲げる。恋人でもない、親友とは言い難いこの関係が、泣きそうな実咲を慰めるために手を握ることが許されるだろうか。

 ――俺は、実咲の彼女ではない。

 手は空を切った。触れてはいけないと思った。何故なら、俺らは恋人ではないからだ。拳を強く握り、再びポケットの中に突っ込んだ。

「頑張って。俺も、頑張るから」

 それから、実咲とは会話の数が減っていった。


 そして、今日に戻る。

 桜は蕾が膨らみ、校舎の中には、涙を流す卒業生があちこちに居た。お馴染みの筒と友人や先生と一緒に撮ったスマホを持って、俺は校舎を後にした。帰り道は、一人でノスタルジアに浸る予定だった。しかし、隣には実咲が居た。駐輪場でバッタリ会ったので、一緒に帰ることになったのだ。駅に着くまで、河川敷にある自転車専用の道を漕ぎながら「三年間早かったね」と話し、古墳公園を横切る頃には今までの思い出を語っていた。もう、この道を自転車で漕ぐのは最後だ。夏の日は、炎天下で暑く車の排気ガスがむせ返った。それに耐えきれず、河川敷を抜ければすぐ近くにあるハローズに何度も寄って、アイスを何個も買った。冬は、足の指に感覚が無くなるほど寒かったが、帰り道の途中にあるフジの駅前店のパン屋に寄って暖を取ったこともあった。部活の仲間や中学時代からの友人、そして、実咲と喋りながらバカ話をした事が思い出になってしまう寂しさが少し心に混じっていた。気が付けば、もう古墳公園を通り過ぎようとしていた。公園には誰にも居なかった。そういえば、一度もあのベンチで座ったことなかったなと振り返った。あかがねミュージアムが背に、新入生が新しいデザインの制服が着られることが羨ましいと実咲は嘆いていた。あの制服を着て、あかがねミュージアムにある地下のステージで演技をしたかったと言っていた。

 そして、自転車を自転車置き場に置くまでは大学の話は、禁忌のように一つも話題にならなかった。気になる、気になって仕方ない。むずがゆさが会話の切口を探させる。迷うのは性に合わない。チャンスは今日、いや、今だけだ。ならば、聞いてしまえ。駅のホームには、誰も居なかった。

「大学、決まったん?」と聞くと、大学? と聞き返し、俺は頷いた。

「うん。決まったよ」

「どこの?」

「君が行きたいとこ」


 思考と動作が停止する。実咲の言葉を何度も頭の中で繰り返す。何故、そっちにしたのか。どうして。もったいない。俺よりも偏差値が高くて、努力家なのは知っている。将来は、演出家になりたいから東京で演劇の勉強をしたいと言っていたじゃないか。前からその夢を追いかけていることを知っている。なら、どうして。


 あの冬の日、俺があんなことを言ったからだ。

 俺が、実咲の夢を壊したのではないか。


「I大に行くん?」少々食い気味で返す。

「そ、そうだけど。どうしたの?」食い気味に聞いてくる俺に驚いたのか、実咲は後退りする。

「演劇、勉強するんやなかったん?」

「お金の事情で、こっちに変えたんよ。こっちでも何かの劇団に入って勉強すればいいやって」

「じゃあ、学部は?」

「文芸学部。でも、諦めてないから」

 お前らしいわ、と返した。と、同時に安堵する気持ちを裏に隠した。ちらり、と実咲の顔を覗く。真っすぐ先を見つめる目。迷いがなく、俺の進路なんて気にしていないようだった。その真っすぐさが、嫉視から憧憬の眼差しへと変わる頃には、恋に落ちていた。しかし、前言撤回。

「潤也は、受かったん?」

 あれ、と脳内で呟く。「いや、まだ」

「どこに行くん? やっぱり、I大?」

 彼女がそう言ったので首を振って、

「東京の方に行く」

 と言うと、彼女の瞳のハイライトが丸く円を描いた。口を塞ぎ、足が覚束なくなる。そして、一粒の雫が頬に一筋の線を引く。彼女は、「まさか」と吐いた。

 頷くことしかできなかった。俺は、学部は違うが実咲と同じ大学の二次試験を受けたのだ。それを読み取った実咲は、何も言わず、手の甲で涙を拭った。白い息を宙に浮かばせ、空へ登る。そして、こちらを見て、「やっぱり、冬は嫌いや」と言った。

 デジャヴだ。俺は、どう声を掛けたらいい、何が正解だ――でも、このままでは前回と同じ結末になってしまう――あの日、俺は実咲に手を繋ぐことさえ出来なかった。後味の悪い蜜柑の皮のような苦さを今、払拭するべきだと脳内が警鐘をしている。

 腕が伸ばした。

「でも、俺受かってないで」

「あっ、そっか。頑張ってね」

「ありがと」突然の励みに驚き、空を切って、腕を戻す。いや、それでは駄目だ。「進路先、変えようかな」

 驚いた顔をした実咲がこちらを覗く。

「やっぱり、I大に行くわ。俺、バカやけん、偏差値足りんかったわ」と言いながら、もう一度、腕を伸ばす。

「何それ」と、彼女は肩を上げてクスリと笑ってみせた。

 自分の手の甲と相手の手の甲が当たる。

 直ぐに距離を取れば、次は、指先を伸ばす。

 そして、彼女の白く細い、冷たい手を握る。

「好きやけん」

 言葉を吐いた後、彼女は、ぎゅっと握り返した。

 その瞬間、口に含んだ果実の蜜柑のような甘酸っぱい香りがした。


 そして、蜜柑の花が咲く頃に、手を繋いで新居浜駅を出る二人の男女は、母校へと向かった。

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5分で読める短編集 倫華 @Tomo_1025

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