「ねぇ」

 朝、先に目覚めたのは彼女の方だった。彼女は、ベッドから起き上がり、端座位で、呟いた。

「ねぇ」その言葉には、白い息が混じっていた。

「何だよ」

「あのね、私……」口元を手で覆い、目を逸らす。何か相談事か? 何か言えないことか? 俺は、起き上がり、後ろから彼女の肩を腕で抱きしめた。

「どうかした?」

「ううん、何でもないの」

 しかし、彼女の身体は、冷たいままだった。


 次は、俺からだった。時計は、特急電車の終電の時間を指し、ホームで別れる時だった。

「ねぇ」手を離し、ポケットに手を入れた。

「なに?」彼女は、相変わらず冷たい返事をした。

 俺は、長方体の箱を指でなぞる。彼女の顔を覗くと、疲れきった顔をしていた。

「なに? どうしたの?」

 遠回しに早く返して、と言われている気がした。そう言えば、最近、よく苛立っていて、体調が悪そうだった。

「お前、いつか……」

 将来、どう考えてる? と、言うつもりだった。しかし、彼女が胃を摩り、下を向く。その代わり、

「おい、大丈夫か?」

 と、言った。彼女は、「何でもないの。大丈夫よ」と、死にそうな顔をして、家に帰った。


 1ヶ月後、彼女から会おうと言ってくれた。遠距離恋愛である分、人肌の恋しさが募っていた俺は、直ぐに飛んで、会いに行った。バイトもシフトを友人に代わってもらい、特急電車に乗り込んだ。ポケットの中には、財布、スマホ、そして、あの長方形の箱。

 普通のデートだった。手を繋いで、一緒に昼食を取って、映画を見た。最後に、夕日が綺麗だと有名な、海辺が見える公園に着いた。傍にあったベンチに腰を掛ける。俺は、ホテルに行くか誘うと、彼女は、申し訳なさそうに断った。

「今日は、ありがとう。急に言って、ごめんね」

「大丈夫だよ。こんな事くらい」

 すると、「ねぇ」と「ねぇ」が、同時に重なる。

 間が空いて、「どうぞ」と「どうぞ」が重なり、笑い合う。気が合うんだろうな、俺達。こんな事でさえ、幸せを感じる。

「ジャンケンして決めよっか」

 提案してきたのは、彼女の方だった。彼女は、知っていた。俺が最初に必ず、握り拳を出すことを。そんな事を気にしていなかった俺は、案の定、グーを出し、彼女は、パーだった。

「先にどうぞ」

 彼女は、夕日が沈む海を眺めながら、ため息めを吐いた。その横顔を、俺はは、じっと眺めていた。

「あのね」

 彼女は、下を向き、両手を握り締めた。その眼差しは、真剣で、死んでいた。もう一度、ため息を吐き、こちらを見て、


「私と別れてください」


 と、言った。その瞬間、頭が真っ白になった。無意識に、どうして? と口が動いた。

「別の人の子供を、授かったの」

 また、頭が真っ白になった。おい、マジかよ。何も突っ込まないまま、彼女は、続ける。

「だから、お願い。私と、別れて」

 彼女は、俺の腕を掴んだ。力が篭もり、目に涙を貯めていた。

「決して、君を好きじゃなくなった訳じゃないの。前に付き合っていた人との間の子なの。君が悪いんじゃないの」

 彼女の頬に、茶色の雫が流れる。思い返せば、メイクもファッションも、徐々に質素になっていたことを思い出した。明るいピンクの服も、紺色の服も似合っていた彼女の今日の服は、白のワンピースに黒のカーディガン。メイクは、ブラウンベースのアイシャドウと、茶色のアイラインのみ目立つナチュナル風。『好きじゃなくなった訳じゃないの』という言葉が嘘に感じられる。

 俺が、黙って聞いていると、彼女は泣き始め、よく分からない言い訳を言い始めた。無性に腹が立ってくる。と、同時に目尻が熱くなる。

「じゃあ、勝手にしろよ」

 俺は、彼女の手を払った。そんな事を言う予定は、なかった。彼女は、涙でメイクが半分落ちて、ぐしゃぐしゃな酷い顔だった。下を向いて、太股に肘を乗せて、空中で手を握った。

「言い訳すんなよ。俺のこと、もう好きじゃなかったら、好きじゃないって、はっきり言えよ」

 これは、本心だった。彼女は、狼狽し、ごめんなさい、と呟いた。バッグからハンカチを取り出し、今更、涙を拭き取る。

「もう行けよ」

 気分悪ぃんだよ、と冷たく吐いた。立ち上がり、もう一度、ごめんなさい、と言い、走って、俺の目の前から姿を消した。

 公園のベンチに取り残された俺は、じっと姿勢を保っていた。いや、動かなかった。目に水が貯まるが、一粒も流れやしない。泣けるものなら、泣きたかった。しかし、涙腺は、許さなかった。諦めて、ポケットに手を突っ込む。残っていたのは、長方形の箱。

「こんなもの、用意するんじゃなかった」

 ポケットに忍ばせた、婚約指輪の箱を握りつぶした。それを海に投げ、キラキラと輝きながら、放物線を描いて、ぽちゃんと落下した。彼女との思い出が消されてしまう。何故だろうか。怒りは消え、虚しさだけが、跡を残す。


「ねぇ」と、吐いた。「俺が死んだら、アイツ、戻ってくれるかな」

 そう呟き、冷たい海水の元へ身を投げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る