指先の虚構世界(3/3)

     ◆




 私は高い所が怖い。

 ベランダなどは慣れきっているものの、一歩足を踏み出せば失禁寸前レベルだ。両足など放り出したら、今度こそ失神するに違いない。

 なのになぜ、私は、鉄の欄干に手をかけているのだろう?

 答えは明快。

 今から肉体を捨てるからだ。


 命と命を天秤に掛ける苦悩は、それから五日も続いた。

 五日間。時間にして120時間のあいだ私は、殆ど眠らなかったことになる。

 おかげで覚悟はできた。内臓が衰え、神経が麻痺した。まともな理性は、とっくのとうに消えている。

「いいんでしょうか……わたし、本気で心配です」

 少女の表情は暗い。彼女から感じる私は、それほどに青く、肌色が凍っているんだろう。

 その目が、私を捉えることはない。

 次元間の分厚いガラスが、そのように曇らせたのだ。私はある発見をした。こちら側とあちら側の接触は、視覚と聴覚と、未知の第六感によるもの。そう思っていた。だがあちら側に、人間の五感はみられない。私が画面から目を逸らしている間も、会話は続き、声に出さなかったこえも、傾聴される。

 ……おそらく。彼女は、私を容貌や声色から認識しているのではない。


 少女は私を、女性だと判った。それがおかしいのだ。

 私は普段、髪を伸ばさない。衣服も、スカートは常備していない。

 声は低く、嗄れている方だ。化粧は限りなく薄く。目つきは、よく鋭いといわれる。

 それらはすべて、年齢をごまかすためのものだ。

 だが。

 私を外見と会話だけで女だと見破った者は、あのとき以来、一人もいない。

 私は社会的に、性別を偽っている。


「いいんだよ。そんなのは。どうでもいい。この世界の事なんて、心底どうでもいい」

 だから彼女が知覚しているのは、紛れもなく別の、異法則のセンサーだ。『あちら側』である世界の。それが作者に植えられた、“行間”に培われた本能なのかどうかは、もはや知る由もない。

「見えている物だけが、真実じゃないってこと」

 私は白々しいまでの乾いた冬空を、睨みつける。

 そして、


 落ちた。




     ◆




 失神した。




     ◆




 重力は感じられない。

 浮遊も感じられない。

 11階の高さから落下する先の想像がない。

 端末スマホがどうなったのか。肉体はどうなったのか。

 すべては無知。

 ただ空白だけが流れ、思考が止まり、漠然と『何か』への繋がりに導かれる。枝のような。細く長い道を通り、下へ、下へ。世界構造そのものが樹だ。過去も未来も。すべて繋がって、隣り合った別の世界は交わらない。その結節点。癌のような患部バグに、出口はあった。

「そん、な―――」

 ああ。懐かしい。




     ◆




『それこそ失神するくらいの、魂が抜ける体験があれば』

『向こうの世界に、行けるかもしれない。きっと会える』

『現実も幻想も救いがないのね。でもすぐに終わらせる』

『大丈夫。私は強いから。僕は強いから。君は儚いから』

『君は、そこで待っていてくれ。ただ、ずっと、そこで』

『そうすれば、■■■君/僕/私は死死死死死死生死死生死生生生』




 少女は目を見開いていた。私の身体は死んだ。

「そん、な―――」

 だが心が、世界を貫通した。

「きてくれ、たんですね」

 昏い空間。

 そこは時間の停止した、永遠だった。




     ◆




 少女との距離は、限りなく近かった。

 明暗と濃淡が曖昧な、淡い光の粒子に照らされた空間。

 そこに―――影絵のように佇む、少女の輪郭カタチがあった。


 触れられる。

 ただそう感じて、手を伸ばした。するとベールが薄れる。平面だった世界に奥行きが生じ、初めは存在のみ感じられた、素朴だが麗しい曲線があらわになる。人間のように。輪郭が明晰に、色彩が鮮やかに灯る。

 差し出した指は、一尺分の立体世界を越えて、ようやく着地した。少女の白い肌に爪の先が、横顔を撫でるように滑る。くすんだ色の髪は、思ったよりも細かで柔らかい。生身の感触が、彼女が生きていると訴えるように、温かい熱が皮膚から伝わる。

「やっと―――逢えました」

「……ああ」

 嬉しそうに。蒼く哀しそうな目が、透明な水晶を帯びる。

 ……その姿は美しい。氷のように硬い隔たりは、溶けてなくなっていた。

 暗幕の融ける空間。狭く小さな、匣のような閉じた世界で、二つの命だけがある。絵ではなく物質として。架空でありながら真実の、温もりとして。魂ある存在が目の前で、自分と同じように、たえず呼吸とまばたきを繰り返す。

 少女はぐらりと傾いて、私の胸元に身体を預けた。

「怖かった。ずっと、怖かったんです。でもあなたがいてくれて……独りにならなくて、よかった。これで―――やっと」

 そうして、無邪気に。

 少女は、笑った。

「あなたはもう、わたしのものです」


 ……いつから、解っていたのだろう。この―――画面の中の世界へ、遊離する前か、それとも後か。記憶は確かに。私の意識は、肉体から離れて、その死が実感できる。ベランダから飛び降り、電子端末……少女の絵が棲む携帯スマホと共に、空を舞った。その瞬間に、私の意識は途絶えた。落下していくなかで、手に握られた画面の中に、それは転送された。

 何日も昔。調べていた事柄を、思い出す。

 生体電流、超常現象、―――

 ああ、なんて嘘くさい話だ。

 でも私は、これで良かったのだ。

 身体から離れた私が、ショックの弾みで少女のいる空間に、『幽離』した。そして情報体として、今は、彼女と繋がり合っている。……おそらく現実では、数秒にも満たない落下時間。それが、この別世界では無限に等しき永遠に、引き延ばされている。

 その虚構で。終わらない箱庭で、ようやく、

 私たちは―――互いの感触ぬくもりを、共有した。


「どうか、離れないでくださいね。逃げないでくださいね。あの人がいないから。あなただけが、希望のぞみなんです。……もう、あなたしか、いないから」

 少女は引き裂くように訴える。弱々しい声。震えて、崩れそうなほどに、しがみついている。

 私は、止まる時間を感じながら、深く沈みゆく眠りに耳を傾ける。音楽の名は終焉。ここで終わった少女と共に、私も、終わる。

「行くところなんてありません。どこかに行きたくもない。でもこうして、あなたはここにいるでしょう? わたしは、ずっと、ここにいます。あなただけのわたしに、きっとなります。だから―――」

 必死に。

 命が燃える、そんな分かりきった結末の痛みに堪えて、少女は、細い指先で私を、暗闇に差した光に向かうように私を求める。

 ただ受け止めて。私は、初めて知った慈しみを、腕の中で感じ取る。静かな闇。頭上の幕が降りて、優しく包んだ。喜びのように。冷たくて、痛ましい。汚れているのは外の世界で、この、昏い泥のほうが純潔だ。

 ―――その中心で。少女は、

「だから……わたしを、強く」

 抱き締めてください、と。

 涙ぐんだ声で、私を見上げていた。

 時間セカイは再び、ゆっくりと動き出した。




     ◆




 数秒の現実を、億万に引き延ばした永遠の虚構デジタル

 装置に閉ざされた記憶メモリが地に落ち、砕け散るまで、この匣は存続する。

 そのあいだ。いくつもの夢を見た。

 弱かった少女が、人間の心を取り戻す。平和な世界で。彼女を腕に抱いたあの絶望よるからは、想像もつかないほど、笑顔で暮らす白昼夢。

 青い空の下を。暖かい風のなかを。草原で舞う蝶のように、自由に飛び回る。

 ―――そんな、明日になれば忘れてしまいそうなほど、素敵な夢を。


 だけど終わりは、それでも来てしまう。


 着地まで数ナノ・メートル。

 端末は確実に、現実の時間を追って地上に迫る。

 機械の中での永遠は、あと少しで消え去る。

 最後の別れを告げるために。

 私と少女は、終着の花園で再び、向き合った。




     ◆




 彼女の来歴は、端的に言えば違うモノだった。


 絵の中の少女は実在しない。

 キャラクターですらない。

 それは、物語の登場人物ではないことを意味する。被造物。作者に象られた泥人形は、このような再解釈二次創作には現れない。物語の本流を辿った旅人キャラクターは、現実に未練を残すことなく、あるべき結末で終わりを迎える。いかに幸福カタルシス堕落バッドエンドを繰り返そうと、抱いた思念は生涯さくひんの中で、完結する。

 しかし―――物語に心を動かされた誰か第三者が、あまりに深く、登場人物彼女を想った時。その感情は果たして、偽りだろうか。

 ここに、例外にせものが生まれた。


 羨望/期待/渇き―――切実な、されど孤独な恋心。

 暗闇に囚われながら、光を望んだ少女。

 

 その『感情』は、人格を獲得した。


 “画竜点睛”。

 少女は魂を宿した。新たなかたり手の込めた絵筆おもいが、強すぎた為に。本物をやぶって。“作中でしか生きられない”という殻を、破壊して。少女はその原初から既に、写し身コラージュでありながら別れ枝オルタナとして、誕生した。

 対象だれかなど存在しない。結末は存在しない。どう足掻こうと、画面なかにいては絶対的に、届かない。だから―――少女の脆く儚い指は、外の世界を、求めた。

 そして。

 この世界は、閉じ込めるためだけのもの。

 閉ざされた檻から、獲物を、聖者を招き求める、誘惑の異界。

 地上の破滅を代償に、希望をもたらす遺物。

 正真正銘の―――『パンドラ』だ。




「本当は、想い人なんていないんです。嘘……だったんです」

 独白のように、花園の消えた部屋で告白する。

「申し訳ないと、思っています。でもこうするしかなかった。だってあなたがわたしの、初恋、なんですよ? 自分でも自分が誰なのか解らないわたしに、あなたは手を、差し伸べてくれた。それだけで、わたしは十分なんです。だから―――だから。……最後の、お願いです」

 少女が私の手に触れる。指と指の隙間が、絡み合って、繋がれる。もう感覚は薄い。消えかかった透明な冷たさが、すぐ後ろにまでやってきた終わりを、告げるようだ。

 私は、それを握り返して。強く、少女を見つめた。

「わたしを、コロしてください」

 浮いた片方の手には、白く輝く、氷結の刃物があった。槍のような。それは何処までも澄み通り、鋭く光る。

「……君の願望のぞみどおりに。さようなら」

 そのまま引き寄せた。切っ先が、白い衣を掻き乱さないように。少女を抱いた腕が、骨の音と共に、軋む。感じられる体温。痛みの感触に、熱く、飛び出しそうな鼓動が、共振する。そして。少女の、背に向けて―――氷刃それを、

「―――――――――」

 刃物は。

 私と少女を同時に、貫いた。

「っ、あぁ―――」


 ガラガラガララと世界が瓦礫のように砕け散る。

 硝子が割れる。

 衝撃が張り裂ける。

 底のない無限のトンネル。

 あらゆるが電子が奈落へ墜ちる。

 光が消え落下していく暗闇に、身を任せる。

 感じられるものは何もない。

 ただしかばねを掴んだように、繋いだ指と指には一切の、温度がない。


 部屋CPUが停止してフリーズする。

 血液データの遺失。

 全てがダウンするのは目前だ。

 消えていく間際。いくつもの幻影が揺り起き、蒼いソラの風景が点滅のように、錯覚される。

 ―――偽りに満ちた現世。

 ―――地上が満たした地獄。

 ―――誰かを想う孤独。

 ―――赦しを乞う罪深さ。

 ―――墜ちていく堕ちていく隕ちていく。

 ―――刹那に撃ち抜く激震。

 ―――転覆した脳に残滓が映る。

 ―――夕暮れに響いた音。

 ―――坂道を歩んだ名残。

 ―――慎ましく咲く花。

 ―――雨に濡れる彼岸。

 ―――悲願は切なく届かない。

 ―――咲き乱れる色は千の契り。

 ―――春の歌は遠く舞い散って。

 ―――星が涙を引いて流れる。

 ―――彼女きみはずっと間違えた。

 ―――だからボクが、あがないになろう。

 ただ近くにある。優しい声が聞こえた。

「きっと、この世界がなくなるまで。いいえ。あなたとわたしが、ぜんぶ壊れて、新しい世界で出会うまで」

 側にいた少女と、何もかもが溶けて

「ずっと、ずっと――――」

 セカイが崩れた。








「愛しています」








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指先の虚構世界 屈折水晶 @Al2SiO4

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