指先の虚構世界(2/3)

     ◆




 それから来る日も来る日も少女の話に耳を傾けた。

 彼女がいた世界。ふれあった人たち。課されていた運命。

 仕事から帰ってきた後の、夜中。子守歌ではないけれど、眠るまでの間は彼女の語る身の上を聴いていた。

 それらはほとんど知っていた事でもある。

 彼女は、本来はキャラクターだ。この世界に居る、作者と呼ばれる人間につくられた被造物だ。もちろん作品の中でしか生きられない。寿命は、作者の頭の中はどうあれ受け手こちら側の知る始まりと終わりの間にしかない。

 だから驚きはしない。そのはずなのだが―――

 少女の人生は、それでも、あまりに人間らしい愛憎に満ちていた。


「わたしには、好きな人がいたんです」

 少女は懐かしそうに思い出を口ずさむ。

「長い間、その人のことを想っていた……でもここにいたら、会えませんよね。気が付いたらこうなってて……わたし、それで思っちゃいました。わたしは画面越しに隔離されたんじゃなくて、初めから、違う世界に生きていた。……見放され、ちゃったんです」

 辛いはずなのに、彼女はいつも少しだけほほえんでいた。

 安楽。好きな人に会えないことは、会わなくていいことだからなのかもしれない。醜い自分を見せなくていい。会って舞い上がり、あとになって後悔する自分にならなくていい、と。そんな少女は、まるで自身を戒めているみたいだった。

「その人を好きでいることさえ、創造主かみさまが決めた事なんです。この世界に来てから分かりました。わたしとあの人のことも、この世界じゃ見せ物なんだ。偽物でしかないんだ、って」

 居場所を失くした子犬のように、少女は俯く。

「それに、元の世界に戻ったからと言って、結ばれるとは限りません。そういう設定でしたから。負けヒロイン……ってやつですね」

 私はなにも言えなかった。彼女は、確かにそういう性質だ。いわゆる不幸、不憫な役割キャラクター。醜い過去を、運命を背負って、救われる日を待つ存在。報われない恋を続け、過程によっては、想い人が他の女性と結ばれるなか、燃焼しきれない思慕を隠して、生を終える。しかし一旦、自身が異性としての目を向けられれば、制御を失った偏愛は、物語を破滅へ導きかねない。それが奪われた恋なら、尚更だ。嫉妬に塗られた復讐は、最悪の結果をもたらすことだって有り得る。 

「けど、それでも……胸が痛み続けたままで、この気持ちは晴れない。どうしようもなく好きで、好きでいることでしか存在する意義がない。決して届かないのに。触れ合えないのに。わたしは――――」

 ―――どうすればいいんですか、と。

 少女は吐き出すように嗚咽を漏らした。

「……わたしはずっと。このまま、絵の中で、不幸に生き続けるのでしょうか」

 ……その叫びは、健気で、哀れだった。

 濡れた髪が物語る。流したのは涙の雨。それはいつまでも、乾くことなく、泥沼のように湿り続ける。

 彼女の問いへの解答は、おそらく何処にもないだろう。これは発生してはならない現象。起きてはならない事故だ。異世界漂流は数あれど、それらはやはり、空想の産物にすぎない。だが目の前の少女は確かに泣いている。人間と同じ、本当の涙で。深く痛みに苛まれながら、必死に堪えている。

 同じだ。同じ、生き物だった。

 だからだろうか。私には、ある気持ちが芽生え始めていた。

 それは―――

「だから、おねがいです。あなたがわたしを」

 それは。

助けて好きになってくれますか?」

 迷わずこたえた。

 私にも。その気持ちが、解るのかもしれなかったから。




     ◆




 方法は幾らか模索した。

 何の方法かと言うと、少女の世界―――『そちら側』に行くための手段だ。

 私は彼女のことを好きになった。彼女を助ける……そばにいてあげるのは、当然といえば当然だ。

 しかし―――画面の中に入るなんて、できるのだろうか?


 正解はまあ、五分五分といったところ。

 VR機器に接続すれば画面は全て視界に収まる。現実的ではあるが、本当にそれで画面の中に『入れる』かどうかは疑わしい。ヘッドマウンドディスプレイに替えたところでただの絵だ。それはいざ実行してみて、すぐにわかった。

 じゃあ、一体何なのか。

 信じたくはないが、超常現象の類だと認めざるをえない。それは端から無理ってもんである。どうすればいいんだ。だが私は運がいいようで、近くの神社に住む自称・仙道の達人にきいてみた。それはつまり、

「気合いじゃのう」

 つまり気合いだった。

 曰く、人間の体には微弱ながら電気が流れている。生体電流。それを超能力じみた“気合い”で増幅させ、操ることができれば、機械の中身を解剖したり脳とつなげることもできるそうだ。

 インチキ科学だった。

 達人のお爺さんはその昔、アメリカの研究所で働いていたらしい。

 なぜ神社にいるんだ。

 けど突っ込まない。世の中こんなものだ。上司のカツラがファンタジーなのと一緒で、なるほど世界は無限の可能性に満ちている。

 でも。だからこそ。

 “好きな人”と離ればなれになったあの少女が、よけいに哀しかった。




     ◆




 突然だが私は性的少数者だ。

 昔、男と付き合ったことがある。


 彼は人格面で、おおよそ他のどの男性よりも優れていた。

 人当たりがよく責任感もあり、何より勤勉だ。大学のサークルで出会った彼には卒業後に告白され、私も別段支障はなかったので気持ちに応えることにした。

 それから十数ヶ月。流れのままにキスまでいったり、その先にいったりもした。彼はとても幸せそうだった。私もそれが、世間での幸せだと思っていた。女としての。男に求められ、必要とされる快感こそが、世の醍醐味なのだと信じた。

 だけど私は知らなかった。それはべつに、誰もが欲しがる承認欲求だっただけなのだということを。


 有る日のこと。仕事が忙しく会う回数が減り、彼から別れ話を持ちかけられた。

「新しく、好きな人ができたんだ。本当に、ごめん」

 ファミレスで硬直しながら汗を流す彼の隣には胸の大きい、顔立ちの整った黒髪の女がいた。彼女は様々な格差により私を見下すような目で、睨んでくる。

「じゃ、そういうことなので」

 そうして“男なんてそんなものか”などとふんわり実感したのも束の間、私は胸に生じたある感覚に全身をこわばらせた。

 ―――憎い。

 どうして、そう思ったのか。私は彼が憎くてたまらなかった。一方的に振られたからではない。いきなり、好きになったという女を私の前に連れてきたからではない。むしろそれは、

 ―――憎い。

 彼に対する、嫉妬だった。

 

 そう。私は生まれて初めて恋をした。私を見下す女に。その嗜虐的な、鋭い光にあふれた瞳が私を貫いた。長い睫毛。薄いメイクに際立つ美貌。清楚系に分類されるそれは、容貌ビジュアルだけで申し分がなく綺麗だ。だがそこに加わる強気は―――紛れもなく、クール・ビューティ。愛らしい外見からの、人の心を凍り付かせ惹き付けるギャップ。そこには歴然と、魔の力があった。私は、一目惚れしてしまった。

 でも私は彼女を手に入れることができなかった。

 恋に落ちたその日から、永遠に奪われてしまっていた。


 私は男になりたかった。

 だからそれ以来、私は私の一部を替えた。

 一人称は『僕』に。

 そして、髪を大会前の陸上部のように、バッサリと切った。




     ◆




 共同生活を送って一週間。創造の人物と会話したり、暮らすだなんて、きっと夢物語にもほどがある。けど親近感があった。彼女は、お気に入りだったから。だから友達のように、自然に打ち解けることができた。私たちは、短期間でかなり仲良くなったと思う。


 その間。私はまた新たなファン・アートを見つけた。

 絵には外国人らしい、薄い金髪に碧い瞳の少女。空は灰色の曇天。十字を抱えた彫像を背に、風に吹かれながら、物思うように目を伏せる。立ちこめる霧が濃い。退廃とした暗い色相は、どこか葬列後の侘しさを思わせる。

「あなたには、わかりませんよ」

 金髪の少女が呟いた気がした。気がしただけで、錯覚だ。

 だが絵の中の世界はやはり彩度の低い、寂寞な情緒に充満している。孤絶するように。『外』の明るさを拒絶して、あくまで閉じたセカイに少女は哀悼する。求める物は何もなく。ただ静かに、動かない風景の一部に殉じている。

 私は、浮かんだイメージを脳裡で繰り返す。

 死。

 まるで墓碑だ。私たちは、知らずのうちにも死に触れずにはいられない。

 身近な死を実感することは、それだけで空洞に陥ることだ。死は不幸な人生を送った者にとっては救いだろう。だが先立たれた者……その生に僅かでも幸福を与えられた人間にとって、その死は、その消失は、不幸を遺していく。取り残されて。思い出を分かち合える瞬間は永遠に訪れることなく、後悔に、悲しみに、永久に囚われる。感情には折り合いをつけられるだろう。忘れられる日もいつかくるだろう。けれど一生、拭えない影を落とす。死は無自覚に、生きる人間の時間を奪っていく。

 だからといって自殺がダメだというわけではないが、自死者を恨む者が居るとすれば、きっとそんな理屈だ。

 それに金髪の少女は、何かを期待するようには見えない。待つべき者は死んでしまったのだから。帰ることはもう、ないのだから。

 ―――ああ、そうか。


 ようやく、見つかった。このが。




     ◆




『助けてくれますか?』

 その言葉に秘められた意味。

 世界を越えて少女の嘆きは届けられた。

 救世主はいない。

 不可視の壁が阻む。

 指先は、針のように冷たかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る