指先の虚構世界
屈折水晶
指先の虚構世界(1/3)
それは奇麗な絵だった。
一つの、鮮やかな色のイラストが目に留まった。
救いの手を求めるように腕をのばす少女。頭上には黒々とした影が舞い降り、今にも少女を闇に包む。その中で。毒のような、鮮やかな紫に髪を彩られた少女は、泣き出しそうな目で、強く何かを訴える瞳で、透明な虚像を見つめている。
憂いを含んだ、細く美しい眉の形からわかる。この少女は、失恋したのだろう。悲痛に満ちた視線の先に、存在しない誰かを捜している。その温かさを、確かな温もりを、強く求めて、しかし少女自身は冷たい景色に沈んでいる。氷のように。透き通った無限の空間が、少女と世界の間に壁をつくり、想い人との距離を隔てている。触れることさえできない。果てしなく遠い、一生かけてもたどり着けない空白。少女はその断絶を知っていながら、他に方法がないとでも言うように、細い指先を虚空にかざし続ける。
……それを、画面越しに眺めている。僕はその、繊細な線と色彩に象られた、少女の
その無音の叫びが、ひどく心を揺さぶった。宛のない悲鳴。叶うことのない願いを抱いて、少女は―――なおもやり場のない想いを、指先に託しているようだった。
「ああ……」
知らず、泣いていた。
滴が白い画面に落ちた瞬間、光が歪む。拡散した紫と紅が交ざり合う。少女の影は消えない。濡れた表情は眩しさを希求したまま、造花のように停止している。湿った花弁が開いたまま凍るようで、
「…………っ」
短くため息を零して、画面に触れた。僕の指は冷たい平面の上を滑り、アメーバのように連なった水玉を拭った。
……僕は、少女と同じように感情のやり場を失くしたのかもしれなかった。あまりにも美しすぎる蒼紫の毛先が、首筋を流れ、額を隠し、光源へ近づいていくにつれて白みを帯びる濃淡のグラデーションが、少女の揺れ動く切なさを思わせた。澄んだ双眸もまた同じだ。残酷なまでに必死に、消えてしまいそうな幻影を見据えている。自らの純粋さを悔やむような……自分は演じているだけの、偽りの純真を有しているだけなのだと懺悔するような……そんな一途な自己逃避が、怯える眼差しが、切望する
だがやはり異質なのは頭上の、得体の知れない暗闇だろう。
優しく、漂うように、音もなく落ちてくる。それは羽毛のように軽く、質量が感じられない。少女を雨から守る傘か、日差を遮るカーテンのようだ。命があるわけではない。だがそれは生物のヒレのように不気味で、触手の長い、
……よく見れば、薄く、黒の上に赤い筋が浮かんでいる。迷子を
欲望?
そうだ、欲望だ。
あれは。少女の真上を舞う影は、欲望の具現ではないか。
成就し得ない願いを、少女は間近で夢に見る。それは苦しい。苦しさは永く月日をかけて鬱屈へ変わり、変色して、溜まっていく。泥水のように。粘ついた液体が、降りかかるように、けど素肌には触れず、ひらひらと、黒く広がりながら、踊る。諦めきれない。信じていたい。そんな祈りを目の前で闇が奪い去り、絶望をもって少女を覆い尽くして、それでも、胸の奥深くで灯った蝋燭が消えない。辛抱強く。命尽きるその時まで、暗闇の中で小さく、燃え続けるしかない。僅かでも近くに居ようとして伸ばした手は、引き戻すにはもう、遅い。
だから、求める。
苦しいのはわかっていて、崩壊する未来も見える。だが求めずにはいられない。なぜなら。なぜなら、それだけが希望なのだから。だから欲求する。奪う。貪る。だめ。でも欲しい。
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
欲しくてたまらないから、遠くへ―――細く脆く崩れそうな、震えて止まない指をのばし続ける。
彼方、この世の果てまで。
届きそうな錯覚が起きるまで、ずっと。
自らの手で、つかみ獲り、微笑みながら、いとおしく口づけを施すために。
無論、そんなのは空想だ。
願望が叶ったのなら、このような絵にはならない。どこまでも醜い欲望では
―――けれどこの少女はどうか?
自らの悪を、害を、自覚しながら戸惑っている。手に入らないことを理解して、手に入れてしまえばそれに疵がつくことを承知して、ためらいの渦に身をよじらせながら、透明な水晶を見つめるように求めようとしている。恨めしく、そして惜しむように。“届くはずないのに”と自虐して、だが同時に、
故に。
邪魔するな―――ではなく。
ごめんなさい―――という償いで。
劣情に自責する。停止機能の壊れた自滅機構。押し殺した心を
そうして自身を、片想うだけの人形に作り替える。
見据えた先の
……僕はそこで、ようやく意識的な呼吸をした。
別に息をしていなかったわけではない。無意識では細かく空気を吸入していたのだろう。
だが確かに、
画面に表示されたファン・アート。ソーシャルネットワークに投稿された少女の
率直に言えば、僕は、この絵の中の少女に恋をした。
すべてが悲しくて、すべてが終わっている。
そんな少女を憐れまずには居られなかった。いたたまれなかった。心を完全に、完膚なきまでに奪われた。それほどに―――完璧な
恍惚に瞼が
そして感じた。
―――画面の中の少女が、迫ってくる。
◆
最初に飛び出してきたのは、『声』だった。
「あの…………」
唐突に聞こえたそれは、僕の耳の孔を通って脳を震わせた。
「――――!?」
「い、いえ……脅かすつもりはないんです」
まるで、生きているかのような音声が響きわたる。手のひらの端末の音量を確認する……ゼロ。ミュート状態。なのにこの、空間そのものに作用するようなわけのわからない感覚は一体―――
そこまで考えて、僕はようやく画面に視線を戻す。
すると、
「あなたには……私のことが分るんですね。よかった」
ありえない光景。
先程まで見ていた絵の少女が―――本当に生きているみたいに、口を動かしていた。
「―――これって」
「そちらの世界と、繋がってしまったみたいなんです」
目と目が合う。
現実では動いていないはずの絵が、活きたように見えた。視覚ではやはり一枚の絵にすぎない。だが、声を聞き取った以上は他の情報も、連鎖的に理解できてしまった。
そう、五感以上の何か……
「でも安心しました。あなたは良い人のようですから」
「え、あ、まあ……ただの独り暮らし、だけど」
「そうなんですね。わたしの……家族に似ていらっしゃったので。女性の方だから、少しは近い者同士かな……なんて思っちゃったりして」
図星だ。
「なんでか分からないけど……君はあの作品の」
「はい。ご存じの通り、――といいます。それで……」
少女が言い淀む。最初の瞬間に見た、あの物哀しそうな瞳が映る。
「聞いてもらいたい、ことがあるんですけど」
僕―――いや、私は、そのまま動かなかった。
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