14 帰社後の予定【尾倉香菜】

「あら、尾倉チャンは降りないの?」


 越川宅を辞し、皆の帰宅ルートに繋がる乗換駅のロータリーに停車した社用車。

 苺子に続いて降車した那須田が、腰を浮かせる気配のない香菜を振り返った。


「はい。今日は私も根木君と一緒に帰社しようと思って。越川さんから色々お聞きしたことを企画用資料として落とし込んでおきたいんです」


「んまあー随分と仕事熱心だこと。アンタもそろそろアラサーなんだから、仕事が恋人~なんて言ってないで、プライベートも大切にしなさいよ」


「えっ!? 香菜センパイ、根木サンと帰社するんですかぁ? 二人でドライブなんて羨ましすぎるぅ!」


「アンタはその恋愛お花畑脳にもう少し仕事要素をぶち込みなさいよ。今日だってどーせ合コンの予定があって帰りを急いでるんでしょうから」


「なんで那須田サンがあたしの予定知ってるんですかぁ? そんなわけで、あたしはお先に失礼しまーす」


 そそくさと駅へ向かう苺子と、駅前のデパートへと入っていく那須田を見送り、香菜を助手席に乗せたまま根木は社用車を発進させた。


 同期の二人であるから、互いの距離感は出来上がっているはず。

 なのに、夕闇の薄暗さの中、軽自動車の車内という狭い空間で二人きりというシチュエーションに、ハンドルを握る根木の指先にはぎこちなさがまとわりつく。


 年甲斐もない緊張を気取られてはみっともないと、根木はいつものからかい口調で香菜に話しかけた。


「それにしても、せっかく金曜日に直帰できるっていうのに、尾倉さんはよく会社に戻る気になれるね。那須田さんが言ってた “仕事が恋人” っていうのは、あながち間違いじゃないんじゃない?」


 売り言葉に買い言葉、香菜もまたいつものようにムッとした口調で言い返す。


「くだらない男を恋人にするくらいなら、仕事を恋人にした方がよっぽど充実した時間を過ごせるんじゃないかしら」


「それって、まるで尾倉さんがくだらない男としか恋愛してこなかったみたいな言い方だね」


「私のプライベートにくだらない推測を当てはめるなんて、根木君も案外くだらない男なのね」


「な……っ」


 頭に血が上った根木が、助手席の香菜にほんの一瞬視線を向けた時だった。

 前方に突然飛び出してきた小さな何かを視界の端にとらえ、咄嗟にブレーキを踏む。


「危ないっ!」

「きゃあっ!」


 急停車の衝撃に、体がガクンと大きく前後した。

 ヘッドライトの光が届くギリギリのところを、子猫が慌てて横切っていく。

 車通りが少ないおかげで追突されずにすんでよかったと、根木はほっと胸を撫で下ろした。


「ごめん! 尾倉さん、大丈夫だった?」


「うん……。シートベルトしてたし大丈夫だったんだけど、今の衝撃で足元にメガネを落としちゃって」


「ルームライトつけようか?」


 バックミラーの上にあるライトのスイッチを触ろうとして顔を上げた根木は、後方からヘッドライトが近づいてくるのを視認した。

 路肩の狭い片側一車線の道路で、反対車線からもヘッドライトが近づいてくる。


「まずい。車が来ちゃったから、とりあえず発進するよ」


 根木はブレーキから足を離し、アクセルを踏む。


「う、うん……」


 心もとないような声色で返事をした香菜だったが、走行中に身を屈めたままでは危険だと判断したのか、メガネを拾うのを諦めて姿勢を戻した。


 助手席に座っているだけならば、急ぎ必要なものでもないだろう。

 根木はそう判断し、香菜が少しでも早く仕事に戻れるようにと車を走らせる。


 再び沈黙が車内を支配するが、根木としては先程香菜に “くだらない男” と断じられたままでは納得がいかない。

 会社に着くまでの間に何とか名誉挽回しようと、香菜の反応を伺いつつ口を開いた。


「さっきは確かに俺の言い方が悪かったけどさ……これでも同期として気遣ってるんだぜ? 尾倉さんは頑張りすぎるとこあるから、疲れてるのに無理してるんじゃないかって」


 憎まれ口の一つでも返ってくるかと身構えたが、助手席からは険のある空気は伝わってこない。

 ややあって、香菜が言葉を返した。


「頑張りすぎてるって、根木君も同じだよね。先週だって、天地返しや畝立ての力仕事を一手に引き受けた後に、一人で社用車を返しに戻って……。今日だって、途中気分を悪くしてたのに一人で運転して戻ろうとしてたから、ちょっと心配になって……」


「え……? ってことは、まさか今日帰社するのは、俺の体調を心配して付き添ってくれたってこと?」


「……ま、まあ、それもあるかな」


 またしても無言になる二人。

 しかし今回の沈黙は、先程の重苦しいそれとはうって変わり、甘酸っぱい空気がふんわりと車内に漂う。


 素直すぎる香菜の反応に舞い上がる根木は、彼女の豹変ぶりが明らかに不自然であることにはまったく思い至っていない。


「……じゃ、じゃあさ、お互い頑張りすぎてるってことで、たまには慰労会やらない? 」

「慰労会?」

「うん。今日くらいは頑張るのやめてさ、二人でパーッと飲みに行こうよ」

「そうだね、たまには同期で慰労し合うのもいいかもね」


 二人の間でいつになくすんなりと話がまとまり、会社までの道のりも会話が弾む。


 やがて会社の入るオフィスビルの前に車を停め、根木はようやくルームライトを点灯させた。


「メガネ、見つかった?」

「うん。ライトつけてくれてありがとう」

「じゃ、車を返してくるから、尾倉さんはロビーで待っててくれる?」

「わかった。運転お疲れ様でした」


 社用車を所定の位置に駐車させ、総務にキーを返却した根木がロビーに向かうと、紅縁メガネをかけてメモを取っていた香菜が顔を上げた。


「根木君、今日も運転お疲れ様」

「お待たせ。じゃ、行こうか」

「え? どこへ?」

「へ? どこへ……って、これから飲みに行くんだろ?」

「そうだっけ? そんな話をした気がしなくもないけど……やっぱり週末挟んじゃうし、記憶が鮮明なうちにデスクで資料をまとめておくことにするわ。それじゃ」


 紅縁メガネの端を中指でついっと押し上げると、香菜はツカツカとヒールを鳴らしながら一人エレベーターへと向かって行った。


「な……何なんだよ、一体……」


 少しは縮まったように思えた香菜との距離が再び遠のいた理由に見当がつかず、彼女が乗り込んだエレベーターの扉が閉まるのを根木はただ呆然と見送った。



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