09 パーマカルチャーとの出会い【越川圭介】

 畝立ての翌週、ゴールデンウィーク前のBグループの活動日。

 根木の運転で香菜と苺子、那須田を乗せた社用車は、一路市境の里山へと向かっていた。


 ナビで設定した住所は、会社から小一時間ほども離れた市境の里山付近。

 根木の隣に座りたいという苺子と、後部座席は車酔いしやすいから嫌だという那須田の間で乗車前から助手席争奪戦が勃発し、不毛な争いで時間を削られることが許せない根木が香菜を助手席に指定した。


 それでなんとか予定時間に出発できたのはよかったが、不満分子かつ犬猿の仲の二人が後部座席に押し込まれたことで、ただでさえ狭い軽自動車の車内の空気がどんどん淀んでいく。


 この空気から一刻も早く逃れるため、道に迷うことは許されないというプレッシャーを抱えて運転する根木。

 そんな同期をサポートする使命感に駆られた香菜がナビ画面をさらにナビゲーションすることで、社用車は指定された地点に迷わず到着することができた。



「ナビの案内はここで終了だけど……目的地らしき民家って、畑の向こうに見えるあの家だけよね」

「えー……。なんかイメージと違くないですかぁ? 薪ストーブがあるっていうから、もっと洋風でお洒落なお家だと思ってたのにぃ」

「アンタのイメージとか激しくどうでもいいけれど、昔からここで農業してますって感じの立派な古民家よね。越川センセが一人で住むには、ずいぶんと広いんじゃないかしら」

「とりあえずあそこまで行ってみましょうよ」


 根木が再び車を発進させ、舗装されていない農道を進んでいく。

 古民家の前で助手席の香菜が車を降り、寺と見紛うほどの立派な門に近づいてみると、「戸田」と書かれた古びた表札の下、スチール製の新しい郵便受けに「越川圭介」のネームプレートがついていた。


「この家で間違いないみたい」と、車内で待機していた三人を呼び、インターホンはおろか呼び鈴すら見当たらない門をくぐって足を踏み入れる。


 石畳を歩きつつ周囲を見回すと、植え込みを隔てて左手には蔵、右手には納屋があり、運搬用の一輪車やバケツなどの農作業道具が置かれている。

 引き戸を重たそうに開けながら、根木が「こんにちはー。ゼアズ・ア・ウェイの農作業Bグループです!」と声をかけると、薄暗い土間のさらに奥から「はーい」と声が聞こえてきた。


「皆さん、遠いところをよくいらっしゃいました。さあ、どうぞ上がってください」


 今日は作業着ではなく長袖Tシャツにチノパンというカジュアルな出で立ちをした越川が、障子戸を開けて土間へと下りてきた。


「失礼しまーす」


 恐る恐る中へ入ると、ひんやりとした空気が漂う中、明り取りから差し込む光が、燻されたように黒光りする太い梁を照らしている。

 古民家を実際に見るのは初めてであった四人は、その穏やかで厳かな佇まいにすぐさま圧倒されてしまった。


 *


「家を見学いただく前に、まずはお茶をどうぞ」


 座敷に通された香菜たちが広縁越しに日本庭園を眺めていると、お盆に湯飲みを五つのせた越川がにこやかに入ってきた。


「それにしても随分立派な古民家ですよね。越川さんのご実家なんですか?」


 香菜が尋ねると、笑顔のままで越川が返答する。


「いえ、実はこの古民家は、僕の元上司の持ち物なんですよ。僕が会社を辞めて自給自足の生活を目指したいと相談したら、空き家となっている自分の生家を維持管理しながら農業をやってみないかと提案してくれましてね。両親が他界して相続したのだけれど、こんな辺鄙な場所では買い手もつかないし、親戚からは先祖代々の土地を売るなと言われて困っていたそうで、住み込みで手入れをしてくれるならば家賃もいらないと。元々が古い農家で耕作地もあったし、パーマカルチャーを実践するにはとても都合の良い環境だったので、僕としてもぜひにとお願いして住まわせていただいてるんですよ」


“戸田” と書かれた表札を思い出した香菜は、越川の話に合点がいったように頷いた。

 すると、すかさず那須田が遠慮のない質問で畳み掛ける。


「越川センセって、すごくお仕事できそうじゃない? どうして会社を辞めてパーマカルチャーで自給自足をしようなんて思っちゃったわけ?」


 その瞬間、根木の目には、広縁から差し込む光によってつくられた越川の顔の陰影が深くなったように見えた。

 だがそう感じたのはほんの一瞬で、越川は穏やかな雰囲気を纏ったまま笑みを深くした。


「パーマカルチャーに出会う前、僕は大手の電機メーカーに勤めていました。一部上場企業で安定した収入を得ていましたし、自分の人生に何の疑問も持っていなかったんですけどね」


「えー、もったいなぁい。その頃の越川センセと合コンしたかったなぁ」


「ははは。残念ながら女性にはあまり縁がありませんでしたから、その頃に野田さんと出会っていれば二つ返事で合コンをセッティングしたかもしれませんね。……そんな僕ですが、会社を辞めたきっかけは、なんと失恋だったんですよ」


 分別のある大人の男性が、失恋ごときで一部上場企業を退職するなんてことがあるのだろうか。

 驚きを隠せない香菜の視線を苦笑いでかわしつつ、越川は自分の過去を語り続ける。


「実は、僕には婚約していた女性がいたんですが、二人で式場の予約に向かう道中で逃げられてしまいましてね……。職場にはすでに結婚の予定を報告してましたから、居心地が悪くなってしまったんです。今思えば、この家の持ち主である戸田部長も同僚も、心底僕を心配してくれていたとわかるんですが、当時の僕は周囲から向けられる視線がすべて憐憫や嘲笑に満ちたものだと感じてしまって……。それで、誰の目にも晒されずに一人で生きていきたいと逃げ込んだのが、自給自足の道だったんです」


「そんな後ろ向きな理由だったなんて……」


 衝撃の事実に、根木が思わず本音を漏らす。

 慌ててお茶をすすって誤魔化したが、越川はそんな根木に向かってにっこりと微笑んだ。


「そうなんです。根木さんのおっしゃるとおり、きっかけはとても後ろ向きなものでした。ただ、農業について調べてみようと立ち寄った書店で、たまたまパーマカルチャーの書籍を手に取ったんです。そこに書いてあった内容は、僕の心に一筋の光を与えてくれました。モノを大量生産し人々に新製品を次々に供給するという社会活動をしていた僕が、そこと対極にある持続可能でミニマムな生活を営むことで、自分自身が生まれ変われるような気がしました。その後退職を申し出たところ、戸田部長からこの家の話をいただきましてね、これはもう初めから決められていた道だったんだと確信したんです」


 最後は力強く言い切った越川と無言の四人の間に、さらりとした春のそよ風が通り過ぎる。


「すみません、なんだか暗い話をしてしまいましたね。でも僕はパーマカルチャーこそが自分の目指すべき道であったと心から思っているんです。今から僕がここで実践している取り組みを紹介しつつ、野菜の種苗をお見せします。皆さんにはそこから得た知識を活かしつつ、菜園の作付計画を立てていただきたいと思います」


 頷いた四人が湯呑みを空けるのを見届けると、越川はいつもの穏やかな雰囲気を纏い、すっと立ち上がった。

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